お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために|第9回|子育てはこんなにも政治なのかよ|張江浩司

お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために 張江浩司 息子をジェンダーの呪縛から解き放たれた子に育てたい──。悩みながら、手探りで子育てに奮闘する父の試行錯誤の育児記録。

息子をジェンダーの呪縛から解き放たれた子に育てたい──。悩みながら、手探りで子育てに奮闘する父の試行錯誤の育児記録。

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第9回
子育てはこんなにも政治なのかよ
張江浩司

クラス分けの乱暴さ

 春から保育園通いがはじまった。4月1日が初日だったが、入園式のような儀式的なものはなく、ちょっとした懇親会とオリエンテーションのみで終了。ちょうどいいフォーマルな服装をなにひとつ持っていない私は、喪服で入園式に列席する事態を避けられて胸をなでおろした。

 うちの子が入ったのは0歳児クラス(ばなな組)で、6人と少人数なのだが、なんとそのなかのひとりは入園翌日の4月2日に1歳の誕生日を迎えるそうだ。4月1日生まれだと早生まれとして1歳児クラスに入るから、ばなな組において考えうるかぎりの最年長である。どうりでガンガン立ち上がって、なんならちょっと歩いてるし、大人が拍手するのに合わせて手をパチパチしたりしてるわけだ。つぎに年長なのがうちの子どもで8か月、まだ腰が座ったばかりでずり這いを練習中だし、一番若い人は生後3か月で首が座っているかいないかというくらいだから、最年長児はぶっちぎりで大人だ。貫禄がすごい。1歳と3か月だと、生まれてからこれまでの時間が4倍違うわけだから、発達の度合いがまったく違う。10歳と40歳くらい違う。それが同じクラスで保育されるというのは、ちょっと無理があるようにも思える。

「クラス分け」というのは人間を一面的な基準でくくって箱に入れていく作業だから、原理的にこういう種類の乱暴さがついて回るんだろう。小学生になったとたんに同じ問題を解けと言われるのも、早生まれの児童にしたらたまったものでないし、かと言って、ちょっと簡単な問題を出されても微妙な気持ちになるだろうし。年齢を経るごとに発達の差は埋まっていくだろうけど、完全にゼロになることはないんじゃないか。大人になったら個人差のほうが大きくはなるが、私の父親は70歳になったら急激に体調が悪くなり、「69歳と70歳はぜんぜん違う⋯⋯」と力なくつぶやいていたので、「数ヶ月の差」というのは意外とずっとつきまとう問題な気もする。

うれしい予想外があった保育園見学

 この「乱暴さ」はクラス分けそれ自体に含まれているものであって、ばなな組の保育士のみなさんは園児それぞれのニーズを汲みとって対応してらっしゃる。遊び方も寝方も、離乳食の柔らかさも食べられる食材も違うんだから大変だ。いろいろな保育園を見学したとき、なんとなく少人数のほうがよさそうだなあと感じていたが、その理由はこうやって細かく見てもらえるからだと、いまになってわかる。

 とはいえ、保育園の特色はメリット・デメリットが表裏一体で、逆に園児の人数が多ければそれだけ他人とのコミュニケーションの機会が増えるともいえる。広い園庭があれば毎日そこで安全に遊べるし、園庭がなければ地域の公園に向かう道中でいろいろな風景に触れることができる。新しい設備は清潔で魅力的だし、古い建物ならばものを丁寧に使うことの大切さを学びとることができる。どの保育園にもいいところがあって、絞り込むのはひじょうに難しかった。

 いま通っている保育園に見学に行ったとき、「うちの園ではSDGsに取り組んでいます」と園長さんが言った。こういった場合、環境問題を指してSDGsと呼んでいることが多い。園児といっしょにゴミ拾いとかリサイクルとかやってるんだろうなと高を括っていると、園長さんは『タンタンタンゴはパパふたり』という絵本を手にする。ニューヨークのセントラルパークにある動物園で2羽の雄ペンギンが卵を温めてかえしたという実話がもとになったもので、「こういった絵本をとおして家族のあり方はひとつだけじゃないと子どもたちにも知ってほしいと思っています」と園長さん。予想が外れてうれしくなってしまった。ほかにも地域との交流を重視していたり、海外出身の保育士さんがいたり、いいなと思えることがいろいろあって、反対に家から若干遠いなど懸念点もあったけれど、6年通う保育園を決めるにあたって、この第一印象は大きかった。

 しかし、0歳で入園した子どもは、仮に4年生大学に進学するとして(さらに仮に浪人留年などしないものとすると)、卒業するまでの22年間、「学校」に通うことになる。正確には保育園は「児童福祉施設」だけども、基本的には平日は決まった時間に起きて、ほぼ同じ年齢のクラスメイトといっしょに先生と呼ばれる大人に何かを教わったりする生活が、22年。長い。

 22年後の日本がどうなっているのかもまったくわからない。米が5kgで1万円くらいになってる可能性もある。「2024年後半から、米を中心に食料品の価格が急激に上昇した原因を説明しなさい」なんていう問題は、いかにも政治経済のテストに出そうだ。将来の高校生がどのような答えを書くと得点できるのかは、現在の私たち「大人」がどのような世論を形成し、選挙などでどんな意思表示をするかによって大きく変化するわけで、自分の子どもにどう接するかというレベルを超えて、子どもの世代にまるごと影響してしまう。

「昔は〝向こう三軒両隣〟で子育てをしていて〜」と美化して言ったりするけれど、いまもそれは変わらないじゃないか。いやおうなしに社会全体の在り方が子どもを形づくる。ガザで起きている虐殺に異議を唱えられるか。クルド人差別を恥ずべきことと唾棄だきできるか。その積み重ねが広い意味での子育てになるんだと思う。うっかり歴史の当事者としての自覚が芽生えてしまった。

出産以来初の夫婦での映画館

 さらにこの保育園のいいところは、「登園できる日にご両親の仕事がお休みでも、遠慮なく預けてくださいね」と明言している点。園によっては親が休みなら登園NGだったりするらしく、「子ども預けてカフェに行っているところを別の保護者に見られて密告された」というような話をSNSで見かけて戦々恐々としていたので、心の負担がグッと軽くなる。

 ちょうど妻が平日休みのタイミングがあり、いっしょに映画館に出かけた。これまでもおのおの映画館に行っていたが、ふたりでとなると出産以来はじめてで、感慨深いというか、「なんかすごいな」という言語化しづらい感覚が去来した。

 その記念すべき時間に鑑賞したのは、1996年に制作された伊丹十三監督の「スーパーの女」。伊丹作品はどれもサブスクなどで配信されていないので、中学生のときにゴールデン洋画劇場で観て以来。少年ながら伊丹作品、とくに「◎◎の女」シリーズがもつ社会の裏側を垣間見るようなダークでユーモラスな雰囲気に「なんだかかっこいい!」と興奮していたが、「マルサの女」や「ミンボーの女」は題材が題材だけによくわからない部分も多く(だからこそ背伸びして観ていたともいえる)、それに比べて「スーパーの女」はタイトルどおりスーパーマーケットが舞台で、「おお、これはぼくでもぜんぶわかる。しかも、めっちゃくちゃ面白い!」と感動した記憶がある。でも30年前の映画なので、いま観ても面白いのか若干心配だ。差別意識丸出しでひとつも笑えないギャグが散りばめられていることも考えられる。妻におすすめした手前、それは避けてもらいたい。

 スクリーンではじめて観た「スーパーの女」、まったくの杞憂でした。やっぱり面白すぎる⋯⋯! そして、ギンギンにフェミニズム映画でもありました。近所に激安スーパーが開店して経営が窮地に陥っている老舗(しにせ)スーパー「正直屋」を、宮本信子演じる花子が主婦の目線からドッタンバッタンと改造し、日本一お客様から信用されるスーパーに変化していくのがストーリー。なにしろ、この映画に登場する男たち、スーパーの経営者や鮮魚・精肉の職人たちは仕事論を振りかざしているようで自身のプライドの話しかしていない(正直屋の専務で花子の幼馴染おさななじみの五郎にいたっては、花子を口説いてしかいない)。何か悪事が露見したときの言い訳は「ほかのみんなもやってるから」「いままでもこうだったから」。

 対して、花子を筆頭にスーパーで働くパートの女性たちや買いにくる主婦たちは、品質と価格、そして仕事への誇りを語る。なぜなら彼女たちには「生活」があるからだ。はたして地に足つけてシビアに経済を回しているのは男と女、どちらなのか? という伊丹監督の視線がこれでもかというほどわかりやすいエンターテインメントに落とし込まれていて、最終的にはトラック同士のカーチェイスでパトカーが横転します。買い物にくる主婦のひとりに田嶋陽子先生がいるキャスティングも絶妙で、ポンプフューリーをいつも履いている花子のファッションもかっこいい。ついでに「雪印集団食中毒事件」が世間を騒がす4年もまえに食品偽装問題を扱っている予言的な作品でもある。

なにが男性性をかたちづくるか

 もうひとつ、最近観てよかった、というか食らったのは、Netflixで3月から配信になったドラマ「アドレセンス」。イギリスが舞台で、早朝、とある民家に重武装した警察隊が突入し、13歳の少年ジェイミー・ミラーを殺人の容疑で確保・連行するところからはじまる。青天の霹靂へきれきの出来事に動揺する家族、「ぼくは何もやってない!」と叫びつづけるジェイミー。留置場でいろいろな手続き、検査、取り調べを受けながら、どうやらジェイミーがかかわっているのはクラスメイトの女性が亡くなった事件のようだとわかってくる。「適切な大人」として立ち会う父親のエディも、なにがなにやらわからない。本当にジェイミーが彼女を殺したのか⋯⋯。

 というミステリーかと思いきや、そこはこのドラマの核心ではなく、ジェイミーが殺したらしいことは第1話の終盤であっさり判明する。動機の部分に焦点が絞られていくが、徐々に浮かび上がってくるのは13歳の少年に染みついた「男性性」だ。暴力的な態度で優位を示し、女性を性的な対象としてのみ認識する。ミソジニーと、インセルとしての自認のあいだで混乱している。アドレセンス=思春期のとば口に立ったばかりのジェイミーに、そういった精神性が確実に息づいていることがあまりにリアルに感じられて、観ていて呼吸が浅くなる。

 そして重要なのは、ジェイミーの有害な男性性がどこに由来するのかがひと言では表せないことだ。

 家庭に問題がある? たしかに父親は短気だし、何も問題がないとはいえないが、母親とも姉とも信頼関係は築けているし、諸悪の根源というわけではなさそう。

 では学校? インスタを介したイジメもあり、それは確実に事件の原因のひとつだが、しかしものすごく荒れている学校というわけでもなく、ジェイミーには友だちもいて、劣悪な環境とは言い難い。

 インターネットのせい? レッドピルなど陰謀論めいた言説はネットから得ているだろうけれど、アンダーグラウンドなサイトにハマっているようすもないし、一般的な使い方の範疇だと思われる。

 つまり、これらすべてに原因がある。家庭や学校コミュニティやネットがそれぞれ影響しあって、男性性を「普通」の少年に注入している。

 このドラマは4話完結と短めだが、あまりに途方もない現実を突きつけられて頭を抱えてしまった。隣でいっしょに観ていた妻も無言だった。正直、こんなことになるなら子どもを家から出したくない。保育園に入れたばかりだけど、外からの影響を受けない環境に置くしかないんじゃないか。このとき、私ははじめてアーミッシュのように社会から隔絶された生活をおくる人たちの思いがちょっとわかってしまった。

 私はあいにく信仰心が篤くないので世俗にまみれた人間なので、今の暮らしをスッパリと捨てるのは難しい。しかし、自分の子どもをめいっぱい育てて、社会もよくしていかないことには、まったく安心できないことがわかってしまった。これは、私ひとりではどうにもならない。家庭内の子育ては妻と協力すればいまのところなんとかなりそうだが、後者はもう社会運動だ。「選挙に行こう!」だけじゃ足りない。いままで以上に権力に対して文句を言っていく必要がある。おいおい、子育てはこんなにも政治なのかよ。

 いろんなレイヤーの権力構造の内幕を少年だった私に面白おかしく見せてくれた伊丹十三にならって、どんどんやっていくぞ。いっちょ景気づけに伊丹映画のDVD BOXでも買うか! と検索したら、けっこうな金額でたじろいだ。

見事にシンクロする妻と子どもの寝相

 

張江浩司(はりえ・こうじ)
1985年、北海道函館生まれ。ライター、司会、バンドマン、オルタナティブミュージック史研究者など多岐にわたり活動中。レコードレーベル「ハリエンタル」主宰。
ポッドキャスト「映画雑談」、「オルナタティブミュージックヒストリカルパースペクティヴ」、「しんどいエブリデイのためのソングス」。