石巻「きずな新聞」の10年│第6回│ほかの被災地から見つめた石巻│岩元暁子

石巻「きずな新聞」の10年 岩元暁子 石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

石巻の仮設住宅で読み継がれてきた「きずな新聞」。最後のひとりが仮設を出たいま、3.11からの日々を編集長が綴る。

初回から読む

第6回
ほかの被災地から見つめた石巻

「住民に寄り添う」活動は求められていないのか

 仮設きずな新聞の再刊に向け、活動資金を調達するために、東京のスタッフがいくつもの助成金を申請してくれていたが、なかなか決まらなかった。助成金が確定するのを待っていてはいつになるかわからないし、仮設住宅の住民さんたちにも忘れられてしまう。新聞再刊の日は2013年6月10日と決め、その後は毎月10日、25日に発行していくことになった。

 くわしいことはよくわからなかったが、当時、「被災者に寄り添う」仮設きずな新聞のような活動はあまりウケがよくなかったらしい。震災から2年が経ち、外部支援者が支援活動を継続することをよしとしない(住民の自立の妨げになると考える)風潮は、助成金採択の場面でも顕著だった。採択されるのは、被災地に所在地のある団体や、外部者であれば新しい産業や雇用を創出するような、いわゆる「アントレプレナー(起業家)系」の活動をおこなう団体。震災からの時間の経過とともに、いわば「落ち着き」を見せる被災地で、いまも「住民に寄り添う」という活動は求められていないのかもしれないと、助成金の申請が落ちるたびに感じた。

 しかし、アンケートに書かれた声と、じっさいに私が仮設住宅で見てきたものは、まぎれもなく真実だ。この悲痛な声に、私は応えなくてはならない。「かならず助成金をとってやるから、好きなようにやれ」。そう言ってくれた代表理事のことばを信じ、私は再刊に向けて準備を進めた。

 新聞再刊後しばらくして、助成金が決まったと連絡がきた。アメリケアーズというアメリカの団体で、被災者の心のケアに関心の高い団体ということだった。強力な理解者兼スポンサーを得て、私は心底ほっとし、心強く感じた。きっと私たちの活動にニーズはある——。

新しい「記者」たち、配布ボランティアたちとの再出発

 仮設きずな新聞が再刊してからの日々は忙しく、つねに目が回りそう、というか目が回っていた。月に1回、編集会議を招集し、2号分の台割をつくり、記事を書いてくれる「記者」たちに記事を割り振り、自分も取材をこなして記事を書き、すべての記事を編集した。

 記者といっても、ふだんから文章を書く仕事をしているわけではなく、日頃はまちづくりや医療・健康のプロとして活動しているメンバーである。こちらが指定した文字数で記事を書いてくれることはほとんどなく、文字数オーバーで「30行削らないといけない」なんてことも多々あった。日本語が少々おかしかったり、論理的でなかったり、伝わりづらかったりということもあり、かといって私もプロの編集者ではないので、私がひとりですべての記事を書いていたころよりもむしろ手間がかかったかもしれない。しかし一方で、私ひとりではとうてい書けないような、幅広く、深い情報をお届けできるようになった。その道のプロは、やはりことばの説得力が違う。他団体との協業や連携が絶大な価値を生むことを、当時の私は身をもって体感することができた。

2013年6月10日発行「仮設きずな新聞」再刊号(51号)。記者募集の記事も掲載した

 新聞作成のあいまに、新聞配布の活動にも以前より多く参加するようになった。とくに週末は県外からのボランティアの受け入れがある。これまでは長期ボランティアが新人の県外ボランティアに手とり足とり教えてくれていたが、新聞再刊後は長期ボランティアがいなかったので、私ともうひとりのスタッフ・たくまくんとで教えなくてはならなかった。

 夜行バスで石巻に到着するボランティアさんたちのために早朝に事務所のカギを開け、お手製のマニュアルをもとに、全員に1時間半のオリエンテーションをした。「ことば(方言)がわからない」「地名がわからない」「緊張して話せない」「どんなことばをかけていいのかわからない」。そんな県外ボランティアさんたちといっしょに仮設住宅を回り、ときに教え諭し、ときに励まし、そしてともにたくさん悩んだ。正解はわからないし、区切りのある活動ではないので、達成感もほとんどない。モヤモヤをかかえて帰っていくボランティアさんたちを見送るのはつらかったし、「活動の意義がわからない」と文句を言われることもあったが、仮設住宅に漂うどうにもならない閉塞感という現実を知ってもらうことだけでも意味があると思った。

神戸へ、スタディツアーにいこう!

「仮設住宅で死にたくない。でも、新しい生活を始められる自信もない」。新聞を再開して半年が過ぎたころ、そういった声をよく耳にするようになった。いつまで続くのかわからない、仮設暮らしのなかでの疲労。復興公営住宅に移り、新しい人間関係を築いていくことに対する不安。こうした状況のなかで、以前にも増して、不眠症やうつ病、ひきこもりやアルコールの問題などが見受けられるようになってきた。

 また、団地内でまとめ役となっている住民ほど自立心や経済力があり、仮設住宅を出て新しい住まいに移っていく。残される住民ではコミュニティの維持や自治会の運営が難しくなり、自治会が解散するケースや住民主催のお茶会が開かれなくなっている団地も目にすることが増えてきた。

ボランティアさん(右端)と新聞配布をしている途中で、住民さんのお部屋に「お茶っこ」に入ったときのようす(仮設住宅内)

「阪神淡路のときはどうだったんだろうね」「経験者に話を聞いてみたいね」。編集会議で、自然とそんな声が上がった。ちょうど阪神淡路大震災の経験者で、石巻の支援にかかわっている方が身近にいたので、当時の話を聞かせてもらえないか、もしくは、だれか話せる人を紹介してもらえないかと相談したところ、「神戸に行ってみては?」と逆提案された。「いやいや、そんなお金は……」と思ったが、被災経験地の復興経験や現在の実態についての現地訪問学習に使うことができる、ちょうどいい助成金があるという。「仮設きずな新聞編集部で、神戸に行こう!」。こうして、人生ではじめてみずから助成金申請書を書き(もちろん徹夜で)、編集部のメンバー+石巻の方々、総勢15名で、3泊4日のスタディツアーを敢行することが決まった。「石巻の方々」というのは、まちづくりや地域づくり、仮設住宅のコミュニティ形成や自治会支援などを手がける地元の住民さんたちだ。バラエティに富んだメンバーがそれぞれの課題意識を持ち寄り、訪問学習に臨むことで、新しい化学反応が生まれることをねらった。

東北の被災地のなかでの石巻の特異性

 助成金の採択決定後、私は仮設きずな新聞編集部を代表して、助成金交付式に参加することになった。採択された岩手・宮城・福島の全22団体の代表者が盛岡市のホテルに集められ、助成金の目録を受けとり、夜は食事つきの交流会もあった。自己紹介の場面で、私はあることに気がついた。私以外のメンバーはほぼ全員、岩手・宮城・福島の出身者で、被災者なのだ。

 石巻で活動していると、「まちや地域の復興のために活動している人(支援者)」として出会う多くは、県外出身者だった。仮設きずな新聞編集部も8割が県外から来たメンバーだ。これまで「自分で助成金をとってでも、まちづくり・地域づくりに貢献したい」というバイタリティのある石巻の地元の人に出会うことがほとんどなかったので、助成金交付式では内心驚いていた。しかし、さらに驚いたのはそのあと。交流会の時間になり、ほかの団体、とくに岩手県の団体の人たちがつぎつぎと私のところに来て、「横浜出身なのに石巻で活動しているというのは、どういうわけなのか?」と聞いてくるのだ。いやいや、むしろ私のほうこそ、なぜ被災者みずからが復興に携わるのかを聞きたい。

 聞けば、岩手県は発災直後もボランティアの数が少なく、発災から2〜3年が経ったいまはほぼ皆無だという。いまでも県外出身者があたりまえに生活・活動している石巻との違いに驚いた。石巻は発災から1年間で、のべ28万人(石巻市人口の約1.5倍)が震災支援活動に携わったといわれている。仙台からのアクセスもよく、なによりボランティアが石巻専修大学のグラウンドにテントを張って生活できたことが、それだけの外部支援者の受け入れを可能にしたのだ。また、日和山に守られるかたちで、街なかの建物が、浸水はしたが流出はしなかったことも大きい。県外からの支援者は、泥かきさえすれば、寝泊まりする場所を確保することができた。リアス式海岸で街なかの大部分が流出した岩手県の沿岸部では、そうはいかない。これまで石巻でしか活動してこなかった私は、このときはじめて石巻の特異性を知ることになった。

私たちが、被災者から復興に携わる原体験を奪った、という気づき

 交流会は2次会、3次会まで続き、お酒の勢いも手伝って、ぶっちゃけ話が始まった。いまでも忘れないエピソードがある。

 私と同い年のその男性は、震災前、陸前高田で美容師をやっていたそうだ。店も家もすべて流され、岩手の内陸に移り住んで、美容院で働きはじめた。ヘアカットの最中、お客さんと震災の話になる。「あのときはたいへんだったわよね〜。1週間も停電して」「断水がつらかったわ」。そんなお客さんの会話に「そうですよね〜」と笑顔で相づちを打つ。しかし、心のなかでは「お客さん、殺したくなっちゃうんですよね〜」。「こっちは家も故郷も家族も流されてるんだよ、何が停電たいへんだっただよ」。これではいけない、と思った彼は、美容師をやめ、故郷にもどって、復興支援をおこなう団体の扉をたたいたのだという。

 もうひとりの若い女性も、家が流され、避難所でつぎつぎと届く支援物資をさばいたり、要支援の高齢者を救うために奔走したりしているうちに、地域の人たちから頼られるようになり、それを機に、復興支援に携わるようになったという。「震災前は、まったく地域づくりとか関係のない仕事していたので、まさか自分がこんな仕事に就くとは思いもしなかった。でも、『私がやらなきゃだれがやる』という思いで走りまわっているうちに、必然的にね」。

 こうした原体験が「故郷の復興にかかわりたい」という大きなモチベーションになり、かれらの人生を変えたという事実に、なんとも言えない感動を覚えた。ふたりの話しぶりからは、「自分たちこそが復興の担い手なのだ」という自負と、「かならずや故郷を復興させてみせる」という固い決意が感じられた。

 ひるがえって、石巻ではどうだろう? 私が避難所の支援に入っていたとき、支援物資の管理は私たちボランティアの仕事だった。弁当の配食も、共用部分の掃除も、私たちが担っていた。被災した住民さんたちはたいへんな思いをして疲れているから、避難所では少しでも休んでもらえるように負担を減らすことが、私たちの役割だと思っていた。しかしそれは、もしかしたら石巻の人たちから、故郷の復興に燃えることができるはずだった「原体験」を奪っていたのかもしれない。「私がやらなくても、だれかがやってくれる」。そんな状況が、石巻の人たちにとって復興を他人事にしてしまったのではないだろうか。

 その事実に思いいたり、私は大きな衝撃を受けた。これまでも、100%自分が正しいことをやっているとは思っていなかったが、被災地で支援活動に従事することじたいは「やらないよりはやったほうがいいこと」だと思っていて、そこに疑いはなかった。でももしかしたら、私の存在や行動そのものが、石巻の復興を遠ざけたのかもしれないと思うと、頭をガーンと殴られたような衝撃だった。

 しかし、残念ながら時間はもどらない。たとえ私が長期でボランティアをしていなかったとしても、のべ28万人のボランティアが石巻に来た事実は変わらないし、いま私が石巻を離れたとしても、きっともう遅い。だが、大切なのはこれからだ。せめて、「東北・被災地のなかで、石巻はもっとも多くのボランティアが活動し、その後多くの支援者が石巻に移住して、長期的に活動をおこなった」という事実を、石巻の復興にとって、ポジティブなかたちで結実させられるよう、私にできる精一杯のことをしよう。そのためには、中途半端な状態では、石巻を離れないことだ。石巻の定住人口にはなれないかもしれないが、せめてコミット度合いの高い交流人口として、石巻にかかわっていこうと決めた。

神戸は20年経ってもまだ復興宣言をしていない

 3泊4日のスタディツアーは、とても学びの多いものだった。

 1日目は、人と防災未来センターで阪神淡路大震災の概要を学び、語り部の話を聞き、夜は震災後の神戸で3年にわたり発行されてきたミニコミ誌「ウィークリーニーズ」の副編集長・和田幹司さんにもお会いすることができた。2日目は、阪神淡路大震災の復興プロセスについて、建築やまちづくりの専門家からヒアリング、午後は超高層の災害公営住宅をじっさいに歩き、災害公営住宅でのコミュニティづくりの取り組みなどについて教わった。夜は、東日本大震災後、毎月11日に開催されているという「3.11支援集会」に参加し、神戸の人たちがいまも東北を思って、活動報告をしたり、情報交換をしたりしていることに感激した。3日目は、「仮設住宅のマザー・テレサ」と呼ばれた看護師・黒田清子さんの団体「阪神高齢者障碍者支援ネットワーク」で当時の活動のようすをうかがったり、大規模災害公営住宅で20年間の生々しい苦労話に耳を傾けたりした。最終日は、真野地区のまちづくり推進会の活動について知り、阪神淡路大震災を機に誕生したコレクティブ・ハウスを見学した。

人と防災未来センターで語り部の話を聞く。人と防災未来センターは「阪神・淡路大震災の経験を語り継ぎ、その教訓を未来に活かす」ことを目的につくられた防災学習施設。
ツアーのメンバーたちに向かって話す「ウィークリーニーズ」副編集長・和田幹司さん
コレクティブハウスをつくった建築家の野崎瑠美さんと、運営を担ってきた方に話を聞く。コレクティブハウスは、台所や浴室、トイレのある個室を確保しつつ、台所・食堂・談話室などの入居者どうしがふれあう共有スペースを備えた集合住宅。

 盛りだくさんの4日間の学びは、仮設きずな新聞に11回に分けて長文記事として掲載した。もっとも印象的だったのは、災害公営住宅で自治組織を運営してきた住民の方々が「たいへんなのはこれからですよ」と、何度もくり返しおっしゃっていたことだ。私たちは、長引く仮設住宅での暮らし、そしてこれから本格的に始まる仮設住宅から復興公営住宅への移行期であるいま〜近未来がいちばんたいへんなのではとどこかで思っていた。復興公営住宅に移ってさえしまえば、きっと安泰にちがいない。そんな楽観的な思いがどこかにあった。しかし、現実は違った。神戸では、災害公営住宅に移ってからのほうが孤独死が多発し、コミュニティ形成のためにさまざまな取り組みをしてきた自治会は高齢化して運営できなくなるなど、時間の経過とともに、問題は解決するどころか、どんどん悪化していた。「〇年経ったら復興」「〇〇ができたら復興」。そんな節目が欲しいところだが、そんなものは幻想でしかない。「神戸は20年経ってもまだ復興宣言をしていないんですよ」のことばが示すとおり、これからの戦いはほんとうに長期戦なのだと思い知った。

 

岩元暁子(いわもと・あきこ)
日本ファンドレイジング協会 プログラム・ディレクター/石巻復興きずな新聞舎代表。1983年、神奈川県生まれ。2011年4月、東日本大震災の被災地・宮城県石巻市にボランティアとして入る。ピースボート災害ボランティアセンター職員としての「仮設きずな新聞」の活動を経て、支援者らと「石巻復興きずな新聞舎」を設立し、代表に就任。「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」を目標に、被災者の自立支援・コミュニティづくり支援に従事。2020年5月、石巻市内の仮設住宅解消を機に、新聞舎の活動を縮小し、日本ファンドレイジング協会に入局。現在は、同会で勤務しながら、個人として石巻での活動を継続している。石巻復興きずな新聞舎HP:http://www.kizuna-shinbun.org/