お父さんはフェミニストだよ、と言える日のために|第10回|父親の葬式で考えた「父親」のこと(前編)|張江浩司

第10回
父親の葬式で考えた「父親」のこと
(前編)
張江浩司
熱発で園をお休み、そこに突然の知らせが⋯⋯
「保育園に通いだすと風邪もらってくるよ」とは親戚や知り合いから耳にしていたし、SNSでもよく見かけた。妻に「0歳児のころは体調崩してほとんど保育園に通えなかった子もいるらしいよ」と言われたときには、マジかよと思いつつ、しかし心の中では「さすがにおおげさっしょ」と楽観視していた。
が、すいません。マジでした。ほとんど通えないとまではいかないにしても、鼻がグスグスして苦しそう、痰もからんでくるので病院へ行って薬を出してもらう。少しよくなってきたかなと思うと、今度は大腸炎になる。そしていつの間にか鼻水バックアゲイン。というループが続いている。これが外界に触れるということか。いろんな人とコミュニケーションをとると、もれなく菌もついてくる。
離乳食に初めて食べる食材を入れるのは、アレルギー症状が出る可能性があるのでなるべく体調がいいときを選ばなければならい。でも、体調が万全のときはほぼない。とくに卵は、卵黄を耳かき1杯の量からスタートして徐々に増やしていき、問題なく1つぶん食べられるようになったら、つぎは卵白耳かき1杯がはじまる。なんの心配もなくゆで卵にガブッとかぶりつけるようになるまでが果てしなく遠い。天竺を目指しているかのようだ(子が三蔵、妻が孫悟空、私は猪八戒と沙悟浄を担当)。
熱が出ると、どんなにニコニコ元気でも登園できない。5月14日の朝、検温すると38.1℃あるので、こりゃお休みだねと。たまたま妻は仕事が休みだったので、病院に連れていったところ、中耳炎になりかけているようだった。とはいえ、子ども本人は耳を痛がるそぶりもなく、機嫌よく遊んでいる。その日は私も差し迫った仕事がなかったので、家族でダラダラと何もせず過ごした。シロップの薬のケミカルな甘さは嫌いじゃないらしく、すすんで飲んでくれるのはありがたい。
翌日15日も耳のようすを診せにくるようと言われていたから、熱は下がったけれど病院へ。「今日も安静にしたほうがいいですね」ということで、保育園に休みの連絡を入れて帰宅。この日は夕方からインタビュー取材の仕事が入っていたが、妻が帰宅してから出発すれば間に合うスケジュールなので問題ない。
子を抱っこしながら洗濯したり、スマホで取材の下調べをしたり、「シナぷしゅ」の動画をいっしょに観たりしていると、「張江家」というLINEグループから通知が届いた。実家の母と私と弟ふたりによるグループで、ふだんほとんど稼働することがない。しかもいちばん発言が少ない、実家に住んでいる三男が送り主だったので、「あ」と思う。スマホを開いて確認すると、「先ほどお医者さまより死亡診断がなされました」。予感にたがわず、父が死んだという知らせだった。
大酒飲みの父がいよいよ飲めなくなって
前回も書いたように、1950年生まれの父は70歳になった2020年ころから体調を崩し、ほとんど自宅のベッドの上で過ごしていた。それ以前からもどこかしらずっと具合の悪い人で、原因は酒、不摂生。毎日飲むのは当たりまえ。私が中学生くらいまでは毎晩飲み歩いていてほとんど家にいなかったし、その後も家でずっと飲んでいた。
そんな生活だから、40代半ばには医者から「このままの生活を続ければ10年で死ぬ」と言われた父である。中学生だった私は親の死をぼんやーり意識するようになる。隔月くらいのペースで痛風になったり、ベロンベロンになって帰ってきて洗面所で倒れたり(184cmの大柄なのでドカーン! とでかい音がした)、通常150を超えると異常値である血中の中性脂肪が2000を指し示して、その病院のレコードホルダーになったりもしていた。癌とか糖尿病とか、具体的で重篤な病名はついていないが、なんかすごく具合悪い状態として父を25年以上認識していたので、正直なところ、訃報にもあまり驚かなかった。
結婚し、子どもができてからは帰省する回数も増えて、そのたびに「生きる気力」のようなものが低下していく父を見ていた。本人のかねてからの希望で、入院はせず自宅で療養し、あいかわらず酒を飲んでいたが、酒量もどんどん減っていく。「検査したら肺に癌が見つかった」よりも「この1週間は酒を飲んでいない」と聞いたときのほうが、父に死が近づいていることをリアルに感じた。
今年の正月には、訪問診療の医師から「何年生きられるかというスパンではなく、何か月だと思っておいてください」と告げられるも、長すぎる心の準備に半ば感覚が麻痺しているようで、ほとんど動揺しない。おそらく母も弟たちもそうだったと思う。3月には母から「さらに体調悪くて、何も食べられなくなってる」と連絡が来て、妻に「顔を見にいったほうがいい」と勧められたのでひとりで実家に行くと、たしかに眠っている時間が長く、話しかけても反応がない。
いよいよかと覚悟らしきものを決めそうになったが、つぎの日にはなんだか顔色がよくなっていて、私がいることにも気づいたのか「酒、飲むか」と母に焼酎の水割りを作ってもらって、手をガタガタ震わせながらなんとか口に持っていって少しずつ飲んでいた。ついでにベッドサイドのテーブルに置いてある煎餅もつまんでかじった。正確に言うと、かじろうとしてなかなか上手く口の中に入れることができず、煎餅が顔の周りをウロウロしていた。うちの子どもが生後3か月くらいのとき、指をしゃぶりたいのにまだ手の動かし方がわからず苦戦していたのを思い出す。
翌日はさらにサンドイッチとグラタンを少し食べたらしく、いくらか生気をとり戻していた。「ダメかなと思ったらちょっとよくなって、こういうくり返しで意外と長生きするかもね」と母と話したくらいで、むしろ介護を担っている母の体力のほうが心配になる。ヘルパーさんに来てもらいながら苦ではなさそうにこなしているが、母も父と同じ75歳だし、だんだん疲弊していくのは目に見えていたから、そうならなかったことは素直によかったと思っている。
「身内より仕事」という行動はなんのためか
こういう感じだから、父親の死を知らされても取り乱すことなく冷静で、しかしそれなりに落ち着かない心持ちで母に電話したり、妻の職場に電話したり、喪服を用意したりと、段取りを進める。とりあえず子がいるから、準備もそこそこに空港に走って地元の北海道に向かう飛行機に飛び乗るなんてエモーショナルなこともできない。「じいちゃん死んじゃったってさ」と子どもに投げかけてみるが、当然リアクションはなく、子はメルカリで買ったトイピアノに山下洋輔ばりのクラスター奏法をかますばかり。めちゃくちゃ笑顔だ。死と微塵も関係のない屈託なさ。父も39年前に乳児の私を見て同じような気持ちになったのだろうか。
夕方からのインタビュー取材は、直前まで編集者と連絡がとれなかったので、予定どおり行くことにした。そういえば、7年前に祖母が103歳で大往生したとき、仕事の都合を優先して通夜にだけ顔を出して東京にとんぼ返りし、葬儀を欠席した。タレントのマネージャーをやっていたが、ヘルプを頼める同僚もいたし、ちゃんと休みをとることもできたはずなんだよな。上司から「休むな」と言われたわけではなく、会社に忠誠心をもっていたわけでもないが、いま思うと家族をないがしろにして仕事を選ぶことで「いっぱしの社会の成員」というポーズをとりたかったのではないか。かろうじて正社員だったものの、低収入で肩書きもない私には、使えるカードがこれしかなかったのではないか。
しかし、だれに向かってポーズをとっていたんだろう。舞台に立つアーティストなら親の死に目にあえないこともあろうけど、私はただの裏方のひとりに過ぎず、「身内の葬式よりも仕事を優先しましたよ!」と言っても褒めてくれるような人はいなかっただろうし、ただただ「自分がいなくちゃ現場が回らない」と思いたかっただけだった気もする。社会のレールから外れたような気分で生きていたが、たった数年前の自分にはこんなに手垢がつきまくったオーソドックスすぎる社会規範がこびりついていて、しかも意味もなく乱暴に表出していたのかと驚く。というか、引く。
ちなみに父は祖母の葬儀に出ない私に怒っていたが、通夜のあとでめちゃくちゃに痛飲し、二日酔いで葬儀を欠席したらしい。喪主なのに。
出ました、「ふたり目は?」に続く助言
5月16日の朝一番の飛行機で妻と子と羽田空港を発ち、昼前に実家に到着すると、葬祭業者と母が打ち合わせをはじめていた。そこに加わるまえに仏間で横たわっている父の顔を見る。本当に寝ているみたいだった。むしろ顔色がいいくらいだ。世代じゃないが、あだち充「タッチ」のあの有名なセリフ「綺麗な顔してるだろ。うそみたいだろ。死んでるんだぜ。それで⋯⋯」が頭に浮かぶ。ただ、やっぱり痩せていて、肉がなくなったぶん顔が面長になっていたが、身体は存在感があって、骨格が立派なんだなと思った。
打ち合わせは滞りなく終わり、翌日に納棺、翌々日に通夜と葬儀を合わせておこなうことになった。形式ばったことが嫌いな父なので、なるべくひっそりと執りおこなうべく、母も最低限の親戚・知人にしか連絡していなかったようで、家に訪れる人もそんなに多くない。とはいえ、花はそれなりに届いて、仏間がみるみるにぎやかになり、ポツポツと弔問客もやってくる。
久しぶりに会う親戚はみな、父の遺体に神妙な面持ちで手を合わせたあと、お悔やみもそこそこに、うちの子どもを見てにっこり笑う。子もいつになく上機嫌で、人見知りせずにニコニコしている。赤ん坊がいると驚異的に場がもつ。子を挟んで「いまいくつ?」「男の子?」みたいなテンプレート会話を2つ3つ交わすだけで、いい感じの時間が流れる。どちらかというと親戚づきあいが希薄な家族なので、たいへん助かった。
そういったやりとりのなかで、「ふたり目の予定はあるの?」と尋ねてくる人が何人かおり、たいていは「まあ、まだなんともいえないですね」のひと言で会話が終了した。しかし、「ダメだよ、がんばらなくちゃ! ひとりっ子だとかわいそうだよ!」と踏み込んでこられることもあって、デリカシーのなさに面食らう。いままで出くわすことがなかったから、少しテンションが上がったくらいだ。こういうコミュニケーションで疲弊してる人のグチをSNSで見るぞ、あれの実物が目の前にいる! という感じ。それも束の間、すぐに疑問と腹立ちがやってきた。
他人の家のプライバシーにそんなに不用意に首突っ込むのはなぜ? 妻や私がひとり目の妊娠出産で身体的・精神的に傷を負ってる可能性もあるよ? 金銭的な問題もあるし。この文脈で「がんばらなくちゃ」って、めちゃくちゃ下品じゃない? あと、うちの子どもが「かわいそう」ってどういうこと? 何を見てそう言ってるの? うちの子どもが「あー、弟か妹ほしいわ。ひとりだとつまんない」って言ってたの? 生後9か月でそんなにしゃべってたら天才じゃないの。そもそも、最終的なバースコントロールの決定権は女性にあるんだから、私に言うなよ。いや、だからといって、こんなこと妻に言うなよ。絶対に言うなよ!
約2秒のあいだにこれらが頭の中を高速で通りすぎた結果、あからさまに険しい顔で「はあ」と放って強制終了。父よ、葬式のまえに親戚と変な感じになってごめん。人から指図されるのも嫌いで、居酒屋で「この刺身は塩で食べてください」みたいなことを言われただけで不機嫌になっていた父なので、おそらくわかってくれると思う。

張江浩司(はりえ・こうじ)
1985年、北海道函館生まれ。ライター、司会、バンドマン、オルタナティブミュージック史研究者など多岐にわたり活動中。レコードレーベル「ハリエンタル」主宰。
ポッドキャスト「映画雑談」、「オルナタティブミュージックヒストリカルパースペクティヴ」、「しんどいエブリデイのためのソングス」。