ほんのさわり|『もの言う技術者たち──「現代技術史研究会」の七十年』|平野恵嗣

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『もの言う技術者たち──「現代技術史研究会」の七十年』
プロローグから
平野恵嗣

技術者として声をあげる

 

 東日本大震災が起きた2011年3月11日、とうまさは東京・調布にある電気通信大学で、技術情報などの輸出管理について講演中だった。終了まぎわに突然大きな揺れに見舞われ、会場は騒然となった。揺れが収まり、講演はなんとか終えたが、首都圏の交通網は遮断されてその日は神奈川県の自宅に戻ることができず、都内にある建設作業員向けの宿泊施設で一夜を過ごす。食堂にもコンビニエンスストアにも食べ物は残っておらず、テレビでニュースを見ることもできなかった。
 東京電力の福島第一原子力発電所で原子炉が冷却できない状態になっており、原子炉格納容器内の圧力が設計条件の2倍近くまで上がっていると知ったのは、翌日になってからだった。後藤は電機大手の東芝を停年退職して約二年。会社では原子力発電所の原子炉格納容器の設計に計に携わる技術者だったこともあり、福島で起きたのは、1979年3月の米国東部ペンシルベニア州スリーマイルアイランド原発での炉心溶融(メルトダウン)事故をはるかに超える大惨事になる可能性があることはすぐにわかった。何かしなければという思いに駆られ、いったん帰宅したあとに出向いたのは、東芝時代からつきあいのあったNPO法人「原子力資料情報室」の都内の事務所だった。
 それから3か月あまり、近くのホテルに泊まり込み、福島の状況の推移や、政府と東京電力の発表をウォッチしながら、情報室のスタッフらとともに事故の現状分析を行ない、自分にわかる範囲の情報を連日、動画配信サイト「Ustream」を通じて実況中継に近いかたちで発信する日々が続くことになる。
 政府と東電の公式発表やテレビで放送される現場の状況などをもとに、一つひとつの現象をどう解釈すべきなのかを、元原発技術者という自分の立場を明らかにしたうえで視聴者に伝えた。
 事故発生直後、メディアに登場する一部の原子力専門家らが1~3号機のメルトダウンを認めていなかった段階で、後藤は、放射能漏れが生じていたことや原子炉建屋で水素爆発が起きていたことなどを受け「炉心溶融が起きていると見ざるをえない」と報告していた。
 震災発生から二日後の記者会見では、原発事故の首都圏への影響について問われ、ソ連・チェルノブイリの原子力発電所での炉心溶融では放射性物質が雨雲に乗って数百キロ先に降下したことを挙げ、「福島で炉心溶融が起きているとすれば、東京は大丈夫などとは言えないし、原発周辺住民の避難対象も10キロ、20キロなどというレベルではない」と警鐘を鳴らした。
 原子力専門家とは相反する見解を公表できたのは、政府や東電の対応の遅れにより、福島第一原発周辺の住民らがしなくてもいい被曝をしているのではないかという不安と、そういう人たちを早く避難させなければという焦りにも似た気持ちからだった。的確な情報を提供しているようには思えない「専門家」たちに対しても、原発についてよくわかっていないのではないか、原発の仕組みは理解していても被害を少なく見せかけることに加担しているのではないか、としか思えなかった。
 国内の主要報道機関だけでなく、十数か国の海外メディアの取材にも積極的に応じながら、「原発についての練習問題をつぎつぎに突きつけられる学生のような気分」を味わっていたが、楽観視を戒めるようなみずからの指摘は、あとから検証すると「残念ながら、九割方はあたっていた」という。
 それまで後藤は、原発には批判的な考えをもちながらも、原子力事業を進める勤務先との軋轢を避けるため、それを表立って明らかにすることは控えてきた。しかし、未曽有の大惨事に直面し、原子力にかかわった技術者として、正確な情報を社会に提供することは自分自身の義務だと考えるようになった。実名を明らかにし、本音でものを言うという初めての体験は、ある種の解放感に満ちたものだった。
 それ以降、後藤はテレビの討論番組などにもたびたび出演し、脱原発の立場から積極的に発言を続けるようになるのだが、その決断の支えとなったのは「現代技術史研究会」(現技史研)という集団の存在だった。
 現技史研は、企業や官庁に所属する技術者や大学などに籍をおく研究者らが、戦後の日本における「技術」のあるべき姿をともに模索し、さまざまな課題について組織の枠を越えて議論を重ねながらおたがいを高めあおうとしてきたグループだ。
 会が発足したのは、敗戦後の混乱期から高度経済成長の黎明期へと進むなかで、復興に向け科学技術や技術者がもてはやされるようになる時代。会員らは、技術の発展の一翼を担っているという気概をもちながらも、一方で、技術や経済の成長過程で生じた公害や環境破壊にみずからも加担しているのではないかという「加害者性」も強烈に意識していた。
 会の議論では、大量生産・大量消費がもたらす廃棄物の増加や、コンピュータリゼーションによる職場の合理化や人間疎外、また、航空機や列車、原発などの大規模事故も俎上に載せた。ときには所属企業の経営方針とは相反するような議論が展開されることもあり、その内容を本や雑誌などで公表する場合は、それぞれの組織内で不利益を被ることのないよう、多くの会員はペンネームを使った。
 現技史研が廃棄物処理や原発などの問題と直接対峙し、会としてなんらかの態度表明をすることはなかったが、会員らはそれぞれの専門知識を市民運動にかかわる人たちに秘かに提供するなどして、その動きをサポートしてきた。いわば「秘密結社」のような集団である。
 企業の内部にいても、組織に盲従することなく、自立した一技術者、一人間として社会と向きあう。自分の理想を実現するため、したたかに行動する。
 そんな仲間の存在に会員たちはたがいに支えられ、刺激を受けてきた。後藤もそのひとりである。
「技術者として何をすべきかを自分なりに考え、それを現技史研にもちこんで、東芝の技術者も日立の技術者もいっしょに議論する。そこで学んだことをベースにして生きていく。自分にとって現技史研は、そういう場です。そこで出会った仲間があちこちにいて、自分はひとりじゃないと思える体験がなければ、原発事故について実名で情報発信を始めたとき精神的にもたなかった」
 通信社の記者である私自身は、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOで起きた臨界事故や「公害の原点」とされる水俣病などについてのささやかな取材体験をとおして、科学技術のもつ危うさを漠然と感じてはいたが、震災発生後、刻々と伝えられる福島の状況には大きな衝撃を受けた。原子炉建屋の水素爆発の映像などを見ながら、これからも首都圏での生活や仕事を続けることができるのだろうかと不安になったことをはっきりと覚えている。
 その後、私たちの生活はあるていどの落ち着きをとり戻し、技術や経済成長への盲信を背景に、原発の再稼働を求める声も高まった。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ような風潮をにがにがしく見ていたときに、技術を推進する立場にありながら、ときとして技術そのものに懐疑的な目を向けてきた人たちがいることを知った。
 ポスト福島の社会が進むべき道を考えるさい、現技史研の会員たちの声に耳を傾けることで、成長一辺倒ではない方向性を示すことができるのではないか。技術者たちの体験をとおして、視点の違う戦後史がみえてくるのではないか。そんな期待から、会員たちを訪ね歩き、それぞれの思索や活動の軌跡を記録してみようと思いたった。

2023年1月17日発売の新刊より、プロローグ部分を公開しました。つづきは書籍にてごらんください。




 

平野恵嗣(ひらの・けいじ)
1962年、岩手県生まれ。86年に上智大学文学部英文学科を卒業、共同通信社に入社。水戸、釧路、札幌編集部を経て、国際局海外部、編集局国際情報室で勤務。おもな取材テーマはアイヌ民族、死刑制度、帝銀事件、永山則夫事件、「慰安婦」、LGBTQ、水俣病など。90年代半ば以降は英文記事で発信してきた。94~95年、米コロンビア大学ジャーナリズム・スクール研究員(モービル・フェロー)として、マイノリティ・グループの子どもの教育現場を取材した。著書に『水俣を伝えたジャーナリストたち』(岩波書店)がある。