拾いもの探偵の取材帳|第4回|一寸法師の宝船|谷本雄治

※一部、刺激の強い写真は小さくしてあります。写真をクリックすると拡大されるので、好奇心旺盛な方はどうぞごらんください
第4回
一寸法師の宝船
ニ艘の舟落ちて何を知る?
秋のはじめだった。公園を歩いていたら、くるくるっと回りながら落ちてくる葉っぱがあった。
葉のふちに、丸いタネのような粒が数個。あとになって、アオギリの落としものだと知った。
「タネつきの葉っぱなんて、めずらしいなあ」
そんな感想しかもたなかったが、じつは違った。葉にタネが付着したものではなく、葉のような実とみるのが正解らしい。
いってみれば、葉っぱもどきだ。素人目には「空飛ぶ舟」でしかないのだが、専門家は「袋果」とよぶ。ほんらいは実の皮が裂けた「果皮の裂片」と表現すべきものらしい。
アオギリが、「鳳凰」のとまる木ともよばれることは知っていた。学生時代に読んだ本に「梧桐」はアオギリの中国名であり、河東碧梧桐という俳号は師の正岡子規がアオギリにちなんで命名した——ということが書いてあった。そんなことからアオギリには、なんとなく親しみを感じていた。
漢代の思想書『淮南子』の一節からとったとされる「一葉落而天下知秋」(一葉落ちて、天下の秋を知る)の「一葉」も、アオギリの葉だという。
アオギリはほかの木にさきんじて色づき、早々と落葉する。たった1枚の葉から大きな変化を予知するなんて、なかなかできることではない。日ごろの自然観察のたまものだろうか。
ぼくもがんばらねば。秋から冬にかけては、拾いもの探偵にとってベストシーズンでもある。
「散歩、行こうか」
家族に声をかけたときはもう、冬だった。
「はい、どうぞ。行ってらっしゃーい」
木枯らしよりも寒いひとことが返され、トホホ気分で家を出る。
いつもはノープランなのだが、その日はなぜか、アオギリの袋果が見たかった。実を焙煎すればコーヒーに早変わりするという、新情報を仕込んだからである。
あらたに見つけた散歩道には落ち葉が積もり、踏むたびに、かさこそと音を立てた。葉の乾いた音が耳に心地よい。
と。少し先に、まさに探そうとしていた葉っぱもどきが落ちているではないか。
アオギリがどこにあるのかと上を見たが、どれなのかわからない。葉があればまだしも、落葉後の姿は見抜けない。新しい場所でもある。1枚でも拾えたら、よしとしよう。
風が吹いた。
葉っぱもどきが動いた。
葉柄の側が前になって、つつつっと地面を走る。舟なら、とも(船尾)が舳先(へさき)を引っぱるようなかっこうである。
急いで追いかけ、掌中におさめた。しかしそれは、アオギリとは別の舟だった。
喫水が深い。アオギリのそれがお皿だとしたら、お椀のイメージだ。
内側は磨いたように、つるんつるん。ヒョウタンの果皮を薄くはいで乾かした感じなのに、ヒョウタンの形ではない。
これが、あらたに見つけた舟の手がかりのすべてだ。言い方を変えれば、調べがいがある。
はやにえの先に発見したもの
「きょうは寒いなあ」
その日は朝から、風が冷たかった。それなのに冬枯れの里山をめざしたのは、新しい舟の正体が知りたかったからである。
数日前に拾った道の先に向かう。拾いもの探偵としては手はじめに、落ちていた場所の周辺を探るべきだと考えた。
キーッ、キチキチキチ……。
モズの甲高い鳴き声が、澄んだ空気をひき裂く。
寒季の食料ストックとしてモズは、木の枝先に虫やカエル、トカゲなどを「はやにえ」としてつき刺す。「すみやかに捧げる供えもの」といった意味があり、「早贄」「速贄」の字を当てる。昔の人たちはモズのはやにえを、神さまへの供えものととらえていた。
その道に生える木では、犠牲になった蛾も見つけた。
幸先がいい。はやにえの発見は吉兆だ。
五感を総動員した。道の向こうで、何かの皮のようなものが風とたわむれている。
——もしかして、あの舟じゃないか?
休耕田らしく、緑と茶の入りまじった雑草が生いしげる。土はかたそうだ。ぬかるんでいないことに感謝して踏みこむと、その物体は植物のつるにつながっていた。
舟のようにも、真っぷたつにした徳利の片割れのようにも見える。
片側は丸く、一方はとがっていた。
皮とおぼしきものは薄い。外側はざらつき、内側はニスでも塗ったようなつやがある。
——これだ、これこれ。
長さは約10センチ。手のひらに乗るサイズ感といい、形や内側の照りぐあいといい、道に転がっていたものとまさに瓜ふたつである。
拾いもの探偵を助けるように、そのつるにはさらに数艘の舟がもやっていた。そのうちのひとつはぴったりとふたを閉じ、実であることを証明している。
割れ目から、綿毛をのぞかせるものもあった。
それを手にした瞬間、まるで待っていたかのように、ほとんどの綿毛が風にさらわれた。
「しまった!」
あわてても、あとの祭りである。
それならとつぎに、まだ閉じている実を慎重に開いた。感心するほど整然とおさまる、綿毛つきの平たいタネが姿を見せた。
もう、じゅうぶんだ。これだけ特徴のある実なら、わが家の本の海をひと泳ぎすれば解は得られよう。
——それにしても軽い実だなあ。
その軽さそのままに、ぼくの心も軽かった。
ガガイモの実は宝船
〈ガガイモ。以前はガガイモ科として独立していたが、いまはキョウチクトウ科の一種に数える〉
何冊かの本がそんな説明に続けて、ぼくが舟にたとえた実を「袋果」と記していた。
——袋果だって?
その専門用語を最初に教えてくれたのは、アオギリだ。大木とつる性の草という違いはあるものの、どちらも袋果をこしらえるのがうれしい。取材帳には欠かせない、縁のある一項目となった。
気になったガガイモという奇妙な名は、実に由来するらしい。古くは「カガミ」「カガミグサ」とよんだそうで、「カガミ」は「鏡」を表す。実の内側を、磨きぬいた鏡に見立てたそうだ。土のなかには地下茎があるが、芋とよべるような塊にはならない。
「ガガ」はカメやスッポンの甲羅の古語で、ガガイモの名は葉の形に由来するとの説もある。それを裏づける資料はないそうだが、夏にはぜひとも、葉を確かめたいと思った。
ガガイモ独特の実にまつわる話には、なんとも心ひかれた。日本神話では、蛾の皮をまとったスクナビコナという小さな神さまが天乃羅摩船に乗って海の彼方からやってきたとされている。その船こそ、ガガイモの実だったというのである。
スクナビコナは、一寸法師のモデルになったといわれるほどに小さい。だから巨人であるぼくの目には小さな舟に見えたものが、スクナビコナにとっては立派な船だったということになる。
地上である「葦原中国」に、その小さな神さまを知る者はいなかった。そこで「クエビコなら知っているかもしれない」というヒキガエル神・タニグクの進言を受けて、物知りで通るクエビコ神に尋ね、スクナビコナの名が明らかになった。そのクエビコは田んぼでじっとしているかかしだということも、なんとも奥深い。
実のなかにぎっしりつまる綿毛は植物用語で「種髪」といい、綿の代用や止血材にし、朱肉・針山づくりの材料にもした。タネは干して「羅摩子」とよぶ生薬にする。
しかもその種髪こそ、時代を超えてくり返し話題となる謎の不思議生物「ケサランパサラン」だとする見方もある。桐箱のなかでおしろいの粉を食べてふえると伝わるが、実体については諸説がとりざたされている。
あの小さな実から、こんなにたくさんの情報がつかめるなんて想像もしなかった。ぼくにとってガガイモの実は、知識という財物を満載した宝船だった。
亀甲形の葉と星形の花
ガガイモだと知った翌年の夏。青々とした葉と、予想外に美しい花を見た。
ハート形の葉はなるほど、カメの甲羅を思わせた。そして、山芋類の葉にも似ていた。もしかしたら亀甲形の葉と山芋の葉の連想が、「ガガ」の「イモ」につながったのかもしれないと想像した。
あの実のはじまりが、星のような形をした美しい花だということにも感激した。赤紫色で、ほわっとした細かい毛が密に生える。虫媒花らしいが、どんな虫が関与するのだろう。それもまた、気になる。
そんなことを思いながら手を伸ばしたら、茎が折れて白い乳液がにじみ出た。猛毒を持つキョウチクトウと同じ科だから有毒でもおかしくないが、成分が異なるため強い毒性はないとあとで知った。それどころか民間治療では、腫れものやできものに塗ったそうである。
奈良県には、クエビコを知恵の神様としてまつる久延彦神社がある。何も知らずに参ったことがあるが、ガガイモが縁で思い出した。いつか再訪して、クエビコにもっと教えを乞おうと思っている。
谷本雄治(たにもと・ゆうじ)
プチ生物研究家・作家。1953年、名古屋市生まれ。田畑や雑木林の周辺に出没し、虫をはじめとする、てのひらサイズの身近な生きものとの対話を試みている。肩書きの「プチ」は、対象の大きさと、研究もどきをたしなむという意味から。家庭菜園ではミニトマト、ナスなどに加えて「悪魔の爪」ツノゴマの栽培に挑戦し、趣味的な“養蚕ごっこ”も楽しむ。著書に、『雑草を攻略するための13の方法 悩み多きプチ菜園家の日々』(山と溪谷社)、『地味にスゴい! 農業をささえる生きもの図鑑』(小峰書店)、『きらわれ虫の真実 なぜ、ヤツらはやってくるのか』(太郎次郎社エディタス)など多数。自由研究っぽい飼育・観察をもとにした、児童向け作品も多い。
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