雑踏に椅子を置いてみる|最終回|生まれてきてくれてありがとう|姫乃たま

最終回
生まれてきてくれてありがとう
姫乃たま
人はいつ死ぬのか/生まれるのか
死にたいと思いつづけて生きてきました。
なぜかずっと、子どもを生みたいとも思って生きてきました。
当然、私なんかが子どもを生んでいいのだろうかという疑問にぶつかります。
人生がちっともつらくも悲しくもない人はいません。私と同じように「死にたい」と思いつめる子が生まれるかもしれません。
私が会いたいという理由だけで、子どもを誕生させて、人生を歩ませてもいいのでしょうか。それは私のわがままではないでしょうか。
そんな長年の疑問が、夫と出会って次第に晴れていきました。ふつつかな私はさておき、この人は最高の父親になるだろうと確信したのです。そうしたら妊娠出産にまつわる後ろめたさは、いつの間にかすうっと消えてなくなっていました。
子どもを生もうと決意したのは人生において大きな一歩でしたが、出産どころか、妊娠するのは思いがけず難しいことでした。
人はいつ死ぬかわからないのと同じように、いつ生まれてくるのかもわからないのです。医療の力を借りても、それは変わりません。私はそのことをわかっていませんでした。死ぬことばかり考えて、生まれてくることについては、あまり考えたことがなかったのです。
子どものころ、性教育といえば避妊の話がメインで、とにかく避妊しなさいと言われた覚えがあります。私は発育のいい子どもだったので、小学校高学年になるころには、同級生の母親から「コンドーム持っておいたら?」などとこっそり声をかけられて心配されていました。
自然と、避妊しなければ簡単に子どもができてしまうのだと思うようになり、まさかなかなか妊娠しないことがあるなんて思いもよりませんでした(個人差が大きすぎる話題とはいえ、そういう可能性もあることは、家庭なり学校なりで教えてほしかったと思います)。
暗い迷路のような不妊治療
不妊治療は痛みと不安とときどき絶望が飛びだしてくる暗い迷路を延々と歩かされているようでした。
「やっぱり明日も来れますか?」
先生のひと言で、週に2回も3回も病院に通いました。卵子の成熟具合に合わせて通院しなければいけないのですが、自分の体のことなのに内診されないと自分では何もわからず、もし都合がつかなければ、その月に積み重ねてきた通院や採血や内診や自己注射や出費は一瞬で全部無駄になりました。
お金がなければ不妊治療をしながらの生活は続けられません。
しかし、仕事を抱えている大人が「やっぱり明日も来れますか?」ですぐに何もかも放り投げて通院するのは厳しいことです。同じく不妊治療をしている会社員の友人は「仕事との両立は無理」と頭を抱えていたし、専業主婦の友人は「家にいると余計なことを考える時間が長すぎる」と精神を病んでいました。
私はフリーランスのライターなので、スケジュールの融通は利くほうなのと、不妊治療でつらいことがあっても執筆に気持ちを切り替えることもできましたが、そんな状況でも通院との兼ね合いでスケジュール調整が難しくなり、白紙になってしまった仕事もいくつかあります。
もちろん子どもを生むことができるなら、仕事がいくつなくなろうがまったくかまわないのですが、現実は出産どころか妊娠できるのかもわからないのに、仕事も減っていくばかりで、手元から何もかもがこぼれ落ちてなくなっていくようでした。
病院はシステマチックで殺伐としていて、こちらが諦めてしまえば引き留める人もおらず、あっという間に不妊治療の道から振り落とされてしまいます。
通院していて初めて労いの言葉を聞いたのは、ようやく採卵(卵巣に針を刺して卵子を取り出す手術)までたどり着いたときでした。看護師さんが「余裕があったら」と優しく前置きして、私の視線をモニターに誘導しながら「これが一生懸命育ててきた卵子ですよ」と声をかけてくれたのです。いままで何がなんだかわからない状態で通院していたのが、初めて自分の卵子を目にして、これが私の子どもになるのだと実感できました。これまで積み重ねてきた全てが報われた気がしたのです。
ところが、取りだせた卵子は全て培養(顕微授精した受精卵を育てる過程)で失敗していました。
白黒写真で見た受精卵はきれいな丸をしていて、見慣れていない私にはどこがどう失敗しているのかよくわかりませんでしたが、とにかく失敗していてすでに培養は中止しているとのことでした。
先生の説明は淡々としていて、命の話というよりは、失敗するまでにかかった費用を説明しているように聞こえました。お会計は7万5000円でした。何もなくなっただけなのに。不思議と採卵が終わって卵巣が空っぽになったときよりもずっと、お腹の中から何もなくなったような感じがしました。
このことを誰に話したらいいかわからなくて、誰かに話したいのかもわからなくて、あまりプライベートなことは書き込まないようにしているSNSに、思わず「今日が一番悲しい日だといいね、がんばれ私。」と書きました。ソファに横たわってフリック入力をしていたら、スマホを見つめる目から涙がこぼれました。
命は取り返しがつかない
2回目の採卵は1回目よりも痛みがひどくて、さらに前回の結果をふまえると培養にも希望がもてず、終わったあとに院内でお腹を抱えてうずくまりながら「もう次はがんばれないな」とすっかり絶望していました。
まあるいきれいな胚(受精卵)が3つできたのは、その後のことです。今度は成功しています。そのためにがんばってきたはずなのに、どこかでどうせ無理だろうと諦めていたので、もちろん嬉しかったけれど、同時に「えっ、なんで?」となんだか信じられない気持ちのほうが大きくありました。
そんな調子だったので、妊娠に向けての実感が再び湧いてきたのは、胚移植(受精卵を子宮に戻す治療)のときです。
治療中にモニターで様子を見ていたのですが、子宮に戻される瞬間の胚は小さく白くきらきら光っていて、命のはじまりってこんなにもきらめいているのかと、いまでも忘れることができません。また、そんな素晴らしいものが体の中にあることも、想像していたよりずっとずっと嬉しくて、不妊治療をはじめてから初めて気持ちがうわずりました。
妊娠出産はなにが起きるかわからないから、喜んでばかりもいられないのだけど、それでもどうしても嬉しくて、だからその後に突然出血したときは頭の後ろが冷たくなるくらい動揺しました。
頭の中は「出血しただけでなんでもないかも」と「そんなわけないじゃん」のふたつの思考を高速の振り子みたいに行き来していて、病院で診察を受けて「流産です」と先生に言われたときは、なぜかほっとしました。ようやく答えがはっきりして、冷たい嵐みたいになっていた脳内が落ち着いたからかもしれません。もうこれ以上心配しなくていいんだと胸を撫で下ろしました。
帰宅してシャワーを浴びたら、心なしかいつもより重たい経血が太ももを伝って大量に流れてきて、心配する存在がいなくなったことが猛烈に悲しく、布団に潜り込んだらどっと涙が溢れてきました。
この子に会いたかった。心底そう思いました。でも命は取り返しがつきません。
ちょうどそのころ、子育てが始まったばかりの友人の男性と世間話をしていて「うちの子が世界で一番可愛いんですよ」と言われました。
私は不妊治療をしていることも流産したことも話していなかったので、「そうだよねえ、きっとそういうものなんだろうね!」と笑って答えながら、内心「世界で一番可愛い」という自分の子に私は会えないんだと思って絶望してしまいました。
不妊治療を始めるまえ、生まれてくる子どもに思いを馳せて悩んでいた日々が遠くに感じられ、当時の自分が早計な贅沢者のように思えます。
夫にも友人と同じような思いをさせてあげることができないかもしれないと思うと胸が苦しく、自分の人生にあるのかどうかわからない「出産」という場所を目指して、暗い迷路を歩きつづけていました。
その後はあまり希望がもてず、どちらかというと恐怖とともに治療を続けました。自分と夫の子どもをこの腕に抱くというただひとつの夢だけが、私をゾンビみたいに動かしつづけていたように思います。
2度目の胚移植のとき、私は微かな絶望感がぬぐえなくて、小さく白くきらきら光っている胚を見ても今度は気持ちがうわずることはなく、浴室の排水溝に流れていった経血がフラッシュバックして、なんて儚い光だろうと思いました。
あなたの心臓はずっと動いている
しかし、私の不安をよそに今度は出血することもなく1か月と少し経ち、病院の内診で突然、胎児の心拍が確認されました。白黒のモニターで見る胎児は小さくて小さくて、その体内にあるさらに小さな点のような心臓が、白く光って点滅していました。命の輝きを目の当たりにしたのです。
ある日のことを思い出しました。
長引いていた抑鬱状態がさらにひどくなり、自宅で倒れて救急車で搬送されたとき、受け入れ先の病院の看護師さんがストレッチャーで横たわる私に「生まれてからずっと、あなたの心臓は動いてきたんだよ。死なせたりしない」と言って心電図を見せてくれたのです。
そのときはあまりにつらくて苦しくて、「死なせたりしない」という言葉が「生きてずっと苦しめ」と言われているように感じられたけれど、初めて胎児の心拍を見て、「死なせたりしない」ってそういう意味だったのかとようやく腑に落ちました。私の心臓も、私が物心つくよりはるかまえ、母親のお腹の中にいたこんなに小さな小さな頃から、ずっとずっと動いてきたのです。今度こそこの命を、私は死なせたくありません。
妊娠初期は胎動も感じられず、お腹も大きくないので、病院で内診してもらうまで、自分のお腹の中にいるのに胎児が無事なのかわからず、また何かあったらどうしようとずっと心配で、生き物を育てているというよりも儚い光をお腹の中に抱えているようでした。
いま、立ち上がるだけで息切れするほどお腹は大きくなり、このまま腹を突き破って生まれてきてしまうのではないかと思うほど、胎児は日夜元気に動き回っています。
それでも「また何かあったら」と心配になる気持ちに変化はなく、しかしこのまま無事であれば、私はいつか救急車で搬送されたあの病院で1か月後にこの子を生みます。
私が居場所になる日
命が誕生するのは奇跡です。不妊治療を経て、奇跡としか言いようがないことを知りました。出産からこの子と私が無事に生きて帰ってこられるのかは、これまたわかりません。
どれだけ医学が進歩してもいまだに命がけであることに変わりのない出産を目前にした私は、しかしかつてのように死にたいと思うことはなく、いま自分が生きていることを肯定しています。
命が発生することの奇跡を知り、儚い光のような我が子をお腹の中で育てているうちに、私はいつの間にか自分自身の命も慈しめるようになっていました。
歩くのがゆっくりになって、道で人にぶつからないか慎重に確認するようになりました。この子のために、と思ってやっていることが、結果的に自分自身を守ることにつながっていました。知らない人が席を譲ってくれたり、優しい声をかけてくれたりするようになりました。自分ひとりでは遠慮してしまって受けとれなかったその優しさを、子どものためだと思うと素直に感謝して受けとれるようになりました。
子どもが生まれたら生活は一変するでしょう。いまは何もかもがこれまでの人生の最終回みたいに感じられて、なんでもない昼寝も、喫茶店で原稿を書きあぐねる時間も、夫や友人たちとゆっくりお喋りしながら食事をするのも、ひとつひとつが残り少ない最後の特別な出来事のように感じられます。
いままではいつでもいいと思って先延ばしにしていたけれど、しばらく機会が持てないかもと思うと、会いたい人に会いたいと言えるし、好きな人たちに他愛もない連絡ができるようになりました。
気づけば自分とお腹の中の子だけじゃなくて、周囲の人たちが生きていることが嬉しく、その奇跡に思いを馳せるようになっていました。
まだお腹の中にいるだけなのに、子どもはすでに私に大切なことを教えてくれています。
自分がつらい思いをしてきただけに、かつては自分が子どもを生んでもいいのか悩んでいました。
しかし、つらい時間が長かったからこそ、その時々に手を差し伸べてくれた人たち、見守ってくれた人たちがいて、私はつらさの中にいて必死だったけれど、それでも世界の優しい面をたくさん見てきました。
いまは大きくなったお腹をなでてくれる友人たちに囲まれて、この子には私も夫もいて、こんなに楽しくて優しい友人たちもいるのだと心強く思っています。
私たちが居場所になるからね。楽しみに外の世界に出ておいでね。つらくなっても、悲しくなっても、私たちがいるからね。
まだ不安は消えなくて、ここからの妊娠生活で、もしくは出産時に、何かあったらどうしようとそればかり考えています。でも、私も夫もこの子の無事を願っています。親族も友人たちも願ってくれています。
人って、こんなにも心配されながら、こんなにも愛されながら生まれてくるものなんだと、私は全然知りませんでした。
とにかくこの子に「生まれてきてくれてありがとう」と言いたい。何度も言いたい。私にも言いたい。夫にも、友人たちにも、この文章を読んでいるあなたにも、何度でも言いたい。生まれてきてくれて、ありがとう。
(完)
*この連載が本になります。書き下ろしを加えて2026年1月刊行予定。どうぞおたのしみに。
姫乃たま(ひめの・たま)
1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。
著書に『永遠なるものたち』(晶文社)、『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)、『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。