雑踏に椅子を置いてみる|第7回|不本意な時間を過ごす理由はない|姫乃たま

雑踏に椅子を置いてみる 姫乃たま 「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

「居場所」は見つけるもの? つくるもの? だれもがもっていそうなのに探し求められつづける、現代における自分の「居場所」論。

 

第7回
不本意な時間を過ごす理由はない
姫乃たま


居場所で自分らしく振る舞う

 ときどき高校にロリータ服で通学していました。私服で通える学校だったので、普段の服もリボンやフリルがたくさんあしらわれた服装でした。年配の女性の先生から「変な格好やめたら?」と言われることもありましたが、私にとってはいつでも自分が納得できる服装でいることがとても重要だったのです。というか、私はもう限界でした。

 母親と私は絶望的なほど服装の趣味が異なり、私は高校生になってアルバイトを始めるまで、自分の好きな服をほとんど着たことがなかったのです。母親はジーンズにTシャツやパーカーなどのラフな格好が好きで、彼女が用意するトップスにはだいたい、アメリカのアニメキャラクターがプリントされていました。日本のアニメで魔法少女が着ているような、繊細でいかにも可愛らしい服装に憧れていた私とは正反対です。

 中学生のころにお年玉で自分の好きなスカートやワンピースを買ったりもしたのですが、母親に「中学生のうちは自分で服を買うのはダメ」と謎のルールで禁止されたり、私のラフな格好を見慣れていた祖父母も、急なイメージチェンジに「ふざけてるのか」と呆れたり怒ったりしていました。

 そういうわけで、服装の自由な高校に通いはじめ、アルバイトでお給料ももらえるようになった私は、いままでの人生の欲望をとり返すかのように好きな洋服を買い集めはじめたのです。

 いまなら「学校に通ってる時間くらい、学業に適したおとなしい服装にしたら?」という意見もわかるのですが、高校生の私にとって、起きてる時間の半分は学校で過ごさないといけないし、もうこれまでの状況が限界すぎて、そんなことを言われようものなら叱ってくる人の何倍もの勢いで発狂してみせたことでしょう。絶対につねに自分の納得できる服装で過ごしたいし、なんなら通学路のコンクリートも全部ピンク色であってほしい、そんな心境でした。

 高校はギャルが多い学校でした。ギャルのなかにぽつんとロリータ。浮いていたと思いますが、幸運なことにギャルたちは寛容で、私が着ていたのはたいていピンク色のロリータ服だったのですが、サックス(水色)のロリータ服を着ていくと「今日、新色じゃ〜ん」と明るく声をかけてくれました。

 母親はすでにあきらめ気味ではありましたが、私の服装にいい顔はせず、通勤通学の時間帯にロリータ服で行動していると、街では指をさされたり笑われたりすることもありましたが、学校に行けば友人たちは面白がって受け入れてくれて、私は10代のころに高校という居場所で自分らしく過ごせたことをとても幸運に思っています。

 それまで近所だからという理由だけで公立の小中学校に通っていた私は、学校生活がとてもつらく息苦しかったのですが、立地と校風を気に入って自ら選んだ高校で、同じ学校を選んで受験してきた友人たちと過ごすのは、とても居心地がよく楽しかったです。もちろん学校にはいろんな性格の生徒がいますが、基本的には学校選びの時点で趣味が合っている人たちが集まっていて、それがとても重要だったのだと思います(仲のいい先生の言葉を借りると「家族ではなく自分で学校選びをした生徒が多い学校」でした)。

合わなければ抜けていい

 高校生活は卒業後の人生でさまざまなコミュニティに参加するにあたって、大切なことをたくさん教えてくれました。

 まず衝撃だったのが、人によってはけっこう遠慮なく学校を辞めていくことです。先に小中学校と学校生活が息苦しかったと書きましたが、それでも通いつづけて転校もしなかったのは、第一に母親が許さなかったというのもありますが、なにより自分のなかに「ここに通いきれなかったら、将来私はどんな場所でもやっていかれないのではないか」という固定観念と恐怖心があったからです。でも高校に入ったら、義務教育ではないこともあり、退学する人のほうがはるかに少数ではありましたが、それでも辞める人は躊躇なく学校を辞めていきました。

 私服で通えてギャルとロリータがいるという時点で、かなり自由な学校を想像されていると思いますが、そのとおりで、校則なんてあってないような学校でした。しかし、いくら自由な学校といっても、基本は朝起きて時間どおりに登校して、勉強して順位を付けられる場所なので、その枠組みが息苦しいのも理解できます。

 私が覚えているかぎり最初に辞めていったのは、ギャルのなかでも飛びぬけて派手だったギャルの子です。長い髪は白に近いほど明るい金髪で、すごく小さな女の子でした。

 とびきり声が大きくて明るくて、授業中もお喋りなのに頭がよくてテストでは成績優秀で、そこから察するに彼女にとって学校で友人と過ごすことも勉強自体も苦ではなかったと思うのですが、それでも早々にぱたりと退学していきました。

 それから一番心に残っているのが、仲がよくて大好きだったふたつ上の先輩が退学したことです。3年生まで通っていたのに、途中であっさり辞めてしまいました。

 高校で出会った親友も、一緒に卒業はできたけど、通学はかなりしんどそうでした。

 親友は学校にくれば「来たくなかった」とぼやき、授業の途中で帰ったら帰ったで、家路についているそばから「明日行きたくない」とメールしてくるような状態で、あまり学校に向いていなかった記憶があります。そもそも「あごが疲れるから」という理由で食事に積極的じゃないという、生きること自体にもかなり消極的な女子高生でした。

 でも、大事なのはそれからの人生のことで、あんなに通学がしんどそうだった親友が、自分の趣味に合っている専門学校と会社を見つけて、インターンから始めた会社に今日も勤めているのです。高校生活には向いていなくても、自分に適したコミュニティに所属できれば、物事は順調に進むのです。高校生活が教えてくれたのは、自分らしく居られる場所を見つけることの大切さと、自分に合っていないコミュニティからは抜けだしてもいいということでした。

 そのことをさらに痛感させてくれた出来事があります。

 高校を中退したふたつ年上の先輩とは疎遠になってしまって、しばらくはどんな生活を送っていたのか知らないのですが、私が高校を卒業してからずいぶんと経って、まったく別の仕事で知り合った人が先輩が夫婦で経営しているミュージックバーで、DJをしていることがわかったのです。そして、私と先輩を再会させてくれました。

 高校生活が合わなければ、先輩のように自分で居場所をつくることもできるのです。いま、そのミュージックバーには毎晩お酒と音楽が好きな人たちが集まってきて、先輩は彼らと楽しく過ごしています。

 また、私も仕事を通じて知り合った人が先輩と再会させてくれたことで、自分らしく過ごしていれば、気の合う人たちとはやがてつながりあっていくものなのだと知ることができました。

 今回はそんな高校生活を経て、その後大人になった私がどうやってさまざまなコミュニティに参加してきたのかをふり返ってみようと思います。会社や学校などの必要性が高いコミュニティではなく、おもに趣味に関するコミュニティにどうやって関心をもって参加してきたのかを思い出してみました。 

気の合う人の趣味を気にしてみる

 まず、居場所を探すとき、自分の好きなものがあって共通の趣味をもっている人たちがいるところへ向かうのが、単純明快だと思います。私の場合、酒場に顔を出すことがそうなのですが、これはもう居場所を「探す」というより、気づいたら居場所に「なっていた」というほうが正しいです。

 レストランや居酒屋で好きなお酒を飲みながら、それに合う料理を食べる。それからバーをハシゴして知らなかったお酒と出会ったり、カウンターで隣り合った人たちとお酒をはじめとする好きなものの話をしたり、そこで仲良くなった人と河岸を変えて朝まで飲み明かしたり。薄暗い照明のなかにいると心身ともにゆるんでリラックスするし、お店の雰囲気に合っている音楽が流れていたら、さらに気分は最高です。

 と、酒場の魅力を書いてもしかたないのですが、私はたまたまお酒が好きなだけなので、皆さんそれぞれの好きなことを思い浮かべていただければと思います。好きなものがあるところを自分で目がけていくのが、コミュニティの入り口としてはもっともわかりやすいでしょう。

 いま参加しているコミュニティを思い出してみると、気の合う友人たちの趣味を体験してみるのもよかったと思います。

 少し話が横道にそれますが、高校に通っているとき仲のよかった友人は、音楽や美術に造詣の深い人が多かったです。多かったというか、全員そうだったかもしれません。私自身も音楽や美術は好きですが、特別くわしいということはなく、友人たちのあいだで飛び交う固有名詞はわからないことも多かったですが、とにかく仲のいい友人たちはみんなそうした趣味をもっていました。

 いまだに音楽にも美術にも特別くわしくない私ですが、高校時代からずっと歌う仕事をしてきて、さまざまな作曲家さんやデザイナーさんたちとかかわってきたので、音楽や美術に造詣の深い人たちといるのが居心地のよい性分なのだと思います。

 そんななかで、私が体験して自分でも夢中になった友人の趣味がプロレスです。もともとプロレス好きな友人は多かったのですが、プロレスを観戦するようになってから、じつはあの友人もこの友人もプロレス好きだったということがわかって、自分の周りのプロレスファン人口の多さに驚いています。

 なんとなくずっと、私はプロレスを好きにならないんじゃないかと思い込んでいたのですが、友人が誘ってくれた試合に足を運んでみて、ひと目で夢中になりました。

 それから新たにプロレスを通じた友人たちとも出会えて、以前からのプロレスファンの友人たちとは、飲みにいってプロレスの話で盛り上がったり、過去の名勝負の映像を一緒に観たりして遊ぶようになりました(まだまだファン歴の長い友人たちに教えてもらうことのほうが多いですが)。

 私はそれまで飲酒以外に趣味らしい趣味がなかったので、プロレスは生活に潤いをもたらしてくれました。気の合う友人たちの趣味は、自分にも合うのかもしれません。そういえば私は同じ経緯で一時期、登山もしていました。

好きか嫌いかもわからないところに飛びこむ

 コミュニティを見つける意外な方法として、あえて興味のないところに飛び込むことがあります。

 たとえば町内の掲示板で「町内会メンバー募集」とか「ウクレレ教室」とかを見かけると(ウクレレはちょっと興味ありますが……)、どういう人がいるところなんだろうと、想像しただけでわくわくします。

 そういった、自分が好きなのか嫌いなのかすらわからない世界に飛び込むのも面白いことです。実際に私にそのことを体験させてくれたのが、詩吟の世界でした。

 祖母が生前に詩吟を習っていたのはなんとなく知っていたのですが、戒名に「吟」の字を入れていたことから、祖母の人生において戒名に選ぶほど重要だった詩吟とはどんなものなのだろうと思うようになって、私は詩吟を習いはじめました。

 詩吟とは漢詩や和歌に節をつけてうたうことで、詩の情景を表現するものです。

 といっても、私は漢詩のことはよくわからないし、詩吟の節もいままで発声したことがないような独特のもので、詩の情景を表現するなんて遠い未来の話です。一方で先生は物心ついたころから詩吟一筋、吟界のオリンピアンのような人物で、私生活でも会社員として朝から晩まで働くキャリアウーマン。人に教えるのが上手なこてこての大阪人で、とにかく東京生まれでフリーランスの私とはなにからなにまで真逆なのです。

 しかしこれが意外なことに(先生の面倒見がよく愛情深い性格のおかげもおおいにありながら)、大変仲良くさせていただいています。お稽古で頻繁に顔を合わせていることもあり、おそらく去年は年間で一番一緒にお酒を飲んだと思います。いまでは先生のご家族とも仲良くさせていただいて、先生のご家族の誕生日パーティまでご一緒させていただきました。

 酒という共通の趣味があるのは大きなことですが、詩吟というまったくの未知の世界でこんなふうに仲良くなれる人がいるのかということに、とても驚いています。

 お教室に通っているのは当然、詩吟が好きな生徒さんたちで、最初こそ私はそんな中でどうなってしまうのだろうと思っていましたが、みんな優しく接してくれています。それはたまたま運がよかっただけなのですが、それからは「町内会メンバー募集」の文字を見ただけで、もしかしたらここにも未来の友人がいるのでは……と少し期待してしまうのでした。

お休みしたっていい

 さて、ここまで新たなコミュニティへの関心のもち方を書いてきましたが、難しいのがコミュニティからの抜け方ですよね。入るのは簡単だけど、抜けるのが難しい。それがコミュニティ、という感じが私にはします。ただし、高校生活を思い出して念頭においておきたいのが、どんなコミュニティも抜けてかまわないということです。時間の限られた自分の人生だと思えば、居心地の悪い場所に留まる必要はありません。

 そうは言っても難しいんですよねー……。

 じつは私も最近、失敗しました。いまの詩吟の先生と出会うまでに、2回だけほかの詩吟教室に参加したのですが、別のお教室に移るのが詩吟界では大変な出来事だと知らず、私が勝手に「まだ2回しか参加してないし大丈夫だろう」と思い込んでいたせいで、辞めるときに大変な騒ぎになってしまって、大人になってから経験したことがないくらいベテランの生徒さんに叱られました(申し訳ございませんでした)。

 思えば、友人に誘われたプロレスに夢中になれたのは幸運だったけれど、もしプロレスが好きじゃなかったら、どうすればよかったのでしょうか。

 人の好きなものに対して、わざわざ「好きじゃないです!」と言う必要はないですよね。学校や詩吟のお教室など、辞めるときに手続きが必要な場合は別ですが、酒場やプロレス観戦などの趣味はやんわり足を運ばなくなるのが無難そうです。

 もしそのコミュニティにいる友人が寂しがってしまったら、そのときはきちんと話し合うことができれば、もしかしたら以前よりおたがいを理解しあって、いい関係になれるかもしれません。あまりいないとは思いますが、万が一怒る人がいたら……一緒にいてもやがて別件で衝突してしまうのではないでしょうか。大事なのは、自分の人生の主導権は自分にあるということです。

 KIRINJIの「時間がない」という曲のはじまりで「あと何回、君と会えるか あと何曲、曲作れるか あと何回、食事できるか 今日が最期かもしれないんだ」と歌われていて、いま30代前半の私にはまだそこまでの強い実感はないのですが、年上(50代以上)の友人たちと話していると、この歌詞のような話によくなります。不本意な時間を過ごす理由はないのです。私もやがて、この歌詞がもっと強く身にしみることでしょう。

 辞める・辞めないという極端な話をしてきましたが、お休みするという手段もとても大事だと思います。たとえば嫌になって距離をおきたいのではなくても、楽しいからこそ、ひとりになってお休みする必要もあると思います。ポジティブな感情でも、感情が動くのは疲れるし、少し時間をとって、楽しかったこと、うれしかったことを反芻して自分の中に落とし込む時間も必要だと思うのです。

 コミュニティに参加するのは他者とかかわることなので、最近の私は予定を立てるとき、いったん自分自身をエスコートするような気分で、本当はどうしたいのか心に問いかけるようにしています。

手放すことで得られるもの

 これまで私は人と会う前に、相手に合わせた〝喋ることリスト〟を用意していました。前回書きましたが、「一緒に過ごす以上、相手に楽しんでもらいたい」というプレッシャーを人づきあいに感じていたからです。しかし最近、それをやめました。

 地下アイドルだったころは多忙で、人と喋るのがほとんどお客さんが観ている舞台の上だったこともあり、お金をいただいても問題がないくらい話が盛り上がるように、いつしかそうした癖がついていました。

 しかしある日、プライベートで友人と話しているときに「あ、いま、なんでもない話しちゃった」とこぼしたら、友人が「それでいいんだよ。仕事じゃないんだから、どんどんどうでもいい話をしようよ」と言ってくれたのです。それがうれしいのと同時に腑にも落ちて、人と会う前に喋ることリストを作るのをやめました(仕事で人と話すときは別です)。

 喋ることリストをなくして自然と話すようになったいまのほうが、「明るい人」と言われることが増えました。

 これには驚きました。なぜなら私は最近人といるときに、笑顔でよく喋ることもやめていたからです。私には緊張すると思わず笑顔になる癖があって(これもたぶん地下アイドル時代に、緊張していても笑顔で舞台に立っていた影響でしょう)、初対面の人がいる場所では緊張もあってつねににこにこしていたのですが、それも思いきってやめたのです。

 いままでは笑顔で場の空気が円滑になるようによく喋ったり話を振ったりしていたのですが、背もたれに背中をつけて(これまで人といるときに背もたれを使ったことがありませんでした)、落ち着いて場に参加しているほうが、笑顔も口数も少ないはずなのに「明るい人」と言われるようになったのです。外側の膜が剥がれて、素の明るさが現れてきたのかもしれません。

 これまで自分のプレッシャーに打ち勝つためによかれと思ってとっていた私の態度が、一緒にいる人たちにもなにかしらのプレッシャーになってしまっていたのかもしれないと反省しています。

 コミュニティに参加するとき、ロリータ服を着ていた高校時代のように、積極的に自分らしくいる方法もあれば、無駄に笑顔をつくらない、会話を予想しておかないなど、何かをやらないことで得られる消極的な自分らしさもあるのだと思います。

 もしもコミュニティにいて「あなたがいないとダメだ!」なんてうれしいことを思ってもらえたとき、それが無理をしている不本意な自分だったら、とても苦しいですよね。そういう素敵な瞬間が訪れたときのためにも、つねに自分でも居心地のいい自分でいることが大切なのだと思います。

 

姫乃たま(ひめの・たま)
1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。
著書に『永遠なるものたち』(晶文社)、『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)、『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。