ヤンゴンは木曜日│第1回│外出規制のヤンゴンで│能勢理子

ヤンゴンは木曜日 能勢理子 ミャンマーで日本語教師やっています。 変わりゆくこの国の暮らし、教育、日々の発見を綴る ヤンゴン発、採れたてエッセイ。

ミャンマーで日本語教師やっています。変わりゆくこの国の暮らし、教育、日々の発見を綴る、ヤンゴン発、採れたてエッセイ。

第1回
外出規制のヤンゴンで


取材者から教師へ──ミャンマー再訪

 ヤンゴン市の外出規制(ソフト・ロックダウン)は2020年4月からすでに約10か月となり、飛行機の日本・ミャンマー間の一般便発着はできないまま2021年がスタートした。ミャンマー政府による救済便というかたちで、日本からミャンマーへの帰国希望者のための便が飛んでいるだけである。昨年1月から2月、武漢へ日本政府が救済便を出したというニュースに、「それってタダ?」と思った人もいるだろう。そんなことはない。救済便は入港禁止国に政府が乗り入れ交渉するということで、金額的には片道切符で往復料金というのが現実だ。その救済便の復路を使って、私も日本に帰ることはできる。けれど、私はここに留まることにしている。

 この国と私の縁は1995年に遡る。軍事政権下当時、西側のジャーナリストが徹底的に入国を拒否されていた時代、政治に疎い自分は表門からジャーナリストビザの申請に品川のミャンマー大使館へ行った。無知無謀が功をなしたのか、ミャンマーの仏教徒の取材をしたいというテーマが気に入られたのか、仕事の発注元が大手だったので安心したのか、わからない。印象としては、言われていたほど難しい申請ではなかった。

 ただ、ビザ発給にあたって、大使館の担当者の実家にカロリーメイト(缶入りの液体)を12本届けるように、という頼まれごとがあった。これは立場を利用したワイロの要求に入るのだろうか? 「最近知り合った日本人にお土産頼んでおいたよ」と実家に連絡するていどのものなのか? 液体のカロリーメイトということは、老いて咀嚼ができなくなった家族への思いやりに思えた。ミャンマーは強面の軍事政権とご近所づきあいが混在しているような国だった。

 21世紀に入り、ミャンマーの民主化が報道され「最後のフロンティア」ともてはやされたとき、私はあのときの不思議な感覚の謎を解きに、もう一度ミャンマーへ行こうと考えたのだった。老後のためにと取得していた日本語教師の資格がこんなにも早い出番となるとは。一時の取材では知ることのできないミャンマーの心根を見たい。2014年、日本語教師としてヤンゴンへの引っ越しを決めた。期間は決めていなかったが、疑問符が増えつづける毎日を送るなかで教師生活8年目となり、先生と呼ばれることにもすっかり慣れた。「先生も食べた~い」などとふつうに口から出てくる。そして、いつのまにか知りたがりの校長になり、今回のコロナ禍へと突入した。

いたるところに祀られている「ナッ」。道行く人が立ち止まり祈る姿はごく日常の光景になっている。(筆者撮影。以下同)
コロナ禍のなかでのリモート授業

 2020年、その私の学校も、3月末にいったんのつもりで対面授業をストップ。5月には大丈夫、7月にはできるだろうと何度も再開準備をしては断念をくり返し、結局、学校再開のめどが立たず、9月に学校にZOOMスタジオを作った。生徒たちは自宅で、私が学校のスタジオからオンライン授業をするという計画だった。3月に一時中止したクラス200人以上の生徒が宙ぶらりんになっていて、なんとしても年内中には修了証を出せるようにしてあげたいと考えたからだ。

 だが、スタートと同時に感染者数が爆発。2桁だった1日の感染者が一気に1000人台となった。外出自粛が促される。正式な外出禁止令がいつ出るかわからない。つまり、授業をする私自身、歩いてたった10分のところにある学校にも行けない可能性が出てきた。外出禁止になるまえにと、そのスタジオ機材はごっそり私の部屋に運び込むこととなった。電動ドリル持参のスタッフがホワイトボードをあっというまに壁に張り付けた。冗談で「私の家にスタジオ作ったほうが早いね」などと言えてた時期が懐かしいくらいで、本当に自宅からの授業になるとは数か月前には考えられないことだった。

 ZOOMクラスにはいくつかの問題点がある。同じヤンゴンでもエリアによって生活環境が違いすぎる。ダウンタウンやチャイナタウンなど町の中心地に住む家庭の生徒とヤンゴン郊外の子では、自室を持っているかいないかという違いさえある。郊外では、授業中に小さい妹が興味津々で画面をのぞき込むことはしょっちゅうだ。「先生、ネットが悪いので庭に出ます」と電波の強い場所を探して敷地内をうろうろする生徒もいる。そして、コケコッコーという鶏の威勢のいい鳴き声が聞こえる。インターネット代は学校に通うためのバス代より高くつくという子もいる。

 ZOOMクラスをスタートさせて数か月たった今、学校も生徒たちもコロナとの共存を覚悟して少しずつシステムができあがってきた。教科書はデリバリー、授業料は銀行振り込み、ミュートのオン・オフのタイミングも生徒はコツをつかんでくれた。パソコンがないことはしかたがないにしても、スマホもないという子はいなかった。

アウンサン将軍が暗殺された地、旧ビルマ政庁は今では観光名所のひとつ。ビクトリア様式の建物はインスタ撮影のスポット。
デリバリー自転車にみる民主化の足どり

 私の来緬当時(2014年)は、まだ携帯電話を持っている人は少なかった。もちろんガラケー。私が学校で携帯電話を支給されたときは、「これ、50万円で買った電話ですから……」と言って渡された。インターネットへのアクセスなど、もちろんできない白黒の画面。電話は限られた人のもので、家に電話がないことさえよくあった。町の雑貨店は店先に自宅の電話とタイマーを置き、有料で電話を貸していた。それが、観光ビザの簡易化(ネットでのビザ取得可)、国際スポーツ大会、オバマ来緬などの国際的な動き・イベントとともに携帯電話が一気に普及した。

 ここで注目したいのは、この国は家電話もテレビもすっとばして「スマホ」へ移行していったということだ。出前を家の電話で注文するという時代も経ず、テレビではなくYouTubeで暇をつぶす生活が一気に来た。

 今、ヤンゴンの銀行は入店時にスマホにアプリを入れさせて、入店者を管理している。もしも感染者が出た場合には即刻連絡がとれるようになっている。タクシーもスマホの配車アプリで呼ぶグラブタクシーが主流で、実際、運転手がコロナに感染したとなると乗客に連絡がいくようにさえなっているのだ。

 ヤンゴンの風物詩だった渋滞がコロナとともに姿を消し、デリバリーの自転車へと様変わりした。日本でいうウーバーイーツで、レストランの各店舗が契約してデリバリー代行をしてもらっている。みな、スマホから各店舗のプロモーションメニューを調べ、ひょいひょいとオーダーしているのだ。

 おおげさだと言われそうだが、私はこのデリバリーの自転車から、民主化の道を歩きはじめたこの数年の「変化」を読み解くことさえができると思っている。

 じつはヤンゴン市はバイクも自転車も2輪車禁止区域なのだ。穴ぼこだらけの道、雨季には冠水多発など、2輪車は事故率が高いから禁止なのだという説明を受けた。のちに、渋滞のさなか軍の要人をバイクに乗ったカメラマンが追いかけまわしたからという話を聞いた。国民の安全など「へ」でもなかった軍事政権下においての2輪車禁止令は、どうも後者のほうが正しいのだろうと、口にはしなかったが思ってはいた。この原稿執筆にあたってもう一度、2輪車禁止の理由を尋ねなおす。すると、数年前とははっきりと違う返答があった。「暗殺が怖いからですよ」と。

 軍の要人を追っかけまわしたのはカメラマンなどという生易しいものではなく、暗殺者だったのだ。そして、私の来緬当時は、外国人の私にそんな物騒な話をしたくなかったのだろう。今は、それができるようになったと考えている。今も本当は2輪車禁止なのだというが、コロナ禍においてそこを規制することで国民のストレスが溜まらないようにという目こぼしなのだそうだ。

 このデリバリーの普及を後押ししたものに「新しいもん好き」なミャンマー人気質があげられる。ここ数年、KFC(ケンタッキーフライドチキン)をはじめ各国資本の飲食店の進出が進み、食の多様化が進んだ。日本語学校のコース修了時の打ち上げ食事会では、以前は「先生にミャンマー料理を」というパターンが多かったが、最近はピザ屋だ、コリアンBBQだのと生徒たちの嗜好も変わってきた。

 今日もヤンゴンの町ではピザやフライドチキン、小籠包、プルコギ、麺とスープを分けたラーメンなどを運ぶ自転車がさっそうと往来している。コロナ自粛だからこそ、好奇心とストレス発散でデリバリーの需要が増えている。食の多様化がコロナによって浸透していくのだろう。(1月15日 記)


*編集部注──このあとの2月1日(月)朝、ミャンマー国軍によるクーデターの一報が世界を駆けめぐった。この事件を受けて急遽、寄稿を依頼した。
(写真の下に記事が続きます)

デリバリーの自転車もものともせず、昔ながらのオバケせんべいの行商はあくまでもマイペース。
2月1日に起こったこと──非常時の情報をめぐって

 毎週月曜日の朝はのんびりできる。オンライン授業になってから、日本で働いている各コース修了生たちも受講するようになり、土日クラスがいちばん忙しい。月曜日、火曜日が私のオフ日だ。朝寝坊できるその朝、7時に知人からのLINEが鳴る。第一声が「心配していたんだよ~」。LINEに起こされた私は頭がまわらない。「ふにゃ?」。

 そのLINEの向こうでニュースを伝えるアナウンサーの声が聴こえる。「今朝、スーチーさんが拘束されたんだよ」と言われて目が覚めた。

 日本からの速報でヤンゴンの事情を知ったのはこれで3度目。ひとつはヤンゴンの老舗ホテル全焼の大火事。もうひとつは飛行場で起きたNLD(国民民主連盟)法律顧問への発砲暗殺事件。どちらも、日本からの連絡で知った。きな臭い話は日本のほうが、情報が早い。
 その後、ミャンマーの報道を確認しようとテレビをつけると、もう、どのチャンネルも映らなくなっていた。

 じつは、この3、4日のあいだ、クーデターが起きるのではという噂は出ていた。日本人のネットコミュニティーなどで注意喚起はされていたものの、「本当にやる」とは思っていない人がほとんどで、というか、「やるわけがない」とだれもが思っているようだった。最近では日本人経営の飲食店が集まってのお弁当フェアなどがショッピングモールで開催され、明るい方向へむかう兆しにみんなが期待していた。ネガティブな話をしたがる人はおらず、心配をあおる情報は控えるという暗黙のルールがあるようだった。

 日本からの知人の連絡のあと、ヤンゴン在住の友人たちからの連絡がつぎつぎ入りはじめる。
「電話がつながらないらしい」
 まさに私は自分の電話が圏外になっているのをおかしいと思い、何度も電源を入れなおしていたところだ。

「ネピドー陥落したらしい。今、夫は銀行に走っている。ひとり100万チャットまではATMで下ろせるそう」
「Wi-Fi使えなくなるかも」
「カンボーザ銀行のATMは動かない。今、銀行に張りついてる」

 これはなんとかしなければと午前8時をまわったころ、学校のミャンマー人経営者に情報がほしいと連絡したが、いつまでたっても既読にならず、すでにネットも止まっているようだった。頼みの綱の大使館の情報もインターネット配信がつねなので、これもアウトだ。

 電話、Wi-Fi、テレビのすべてが止まり、外との連絡手段、情報入手方法がまったくないという閉塞感。ネット依存している若者の不安感とはこういうことなのか? 家の中で遭難したような感覚。インターネットも電話も通じないiPhoneがただの板に見えた。いつまで続くのやら……。悪名高い停電と同じだ。1時間で復旧するかもしれない、3時間のときもある。半日、1日という停電も経験している。しかし、Wi-Fiが切断されたのは今回が初めてだ。復旧までの時間の想像のしようもない。

 遭難状態になって3時間ほどが経った午前11時ごろ。ドンドンとドアをたたく音がする。一瞬の恐怖感もあった。コロナ禍になってから外国人に対しては住所(所在)の登録書をきちんと持っているかの調査が入ったこともあったから。もちろんきちんと持っているのだが、やはりお役人とは会いたくない。ドアは開けず、相手の確認のため、ドア脇の窓から外をのぞく。あらま、近所に住む教え子が立っている。

「先生、電話もインターネットもつながらないから、食べ物を持ってきました」

 卵、リンゴジュース、スイカ、そして冷凍ソーセージ。なんてキュートな差し入れセレクションだろう。「ミャンマーネットが比較的つながりやすいと言われていますが、私はつながっていません」とのことで、プロバイダーにもよるのかという情報を得る。そして、「出かけないでくださいね」というひと言を残してくれた。

*        *        *

 リアルタイムで受けとることはもちろんできなかったが、在ミャンマー日本大使館からのメールの内容を記しておく。その日のメールはどれも「緊急情報」とタイトルにある。

 8時15分配信のものには、ヤンゴン・ネピドー管区を含むミャンマー全土でアウンサンスーチー率いる政党NLD(国民民主連盟)の政府閣僚が多数拘束されたとある。

 メールはその後、緊急情報2、3と続いた。

「緊急情報2」(10時15分配信)では、司法・立法・行政の権限が国軍司令官に移譲されたという国軍放送の発表について。この権限の移譲理由は、2020年11月の選挙において国軍が有権者名簿に誤りがあると指摘したにもかかわらず、政府および連邦選挙委員会が見直しを行わなかったことに対し民主主義に反すると判断したためで、そのための今回の実行だという内容だ。

 午後1時30分配信の段階では、「2008年の憲法規定」を尊重し、国家の権限を臨時大統領に移譲し、本日から政権を始動することとなったと放送で発表されたとあった。
 テレビは軍によって国軍メディア以外の配信ができないこととなっていたと後で知る。私のテレビはその時間帯も、どこも映らなかったのだが。

 この「2008年の憲法規定」とは、民主化の声が高まるなかでの軍政権によって制定されたもので、国会議員の25パーセントを国軍司令官の指名枠とする、外国籍の親族がいる者の大統領就任はできないものとする(つまり英国籍の息子がいるスーチーさんは大統領になれない)と、勢いをつけていたNLDの政治支配を阻む目的であることは明らかだった。そして、憲法改正には全議員の75パ―セント以上の賛成を必要とするとある。これでは、25パーセントの議席をもつ軍側のだれかの賛成なくして、憲法改正は不可能ということだ。

 学校では、政治や宗教にかかわる話題は極力避けてきているのだが、NLD圧勝の手応えは私自身も感じていた。
 昨年11月の選挙当日は学校を休みにしていた。住民票のある地で投票をするため実家に帰りたいという子が多かったからだ。NLDの議席数を維持したいからと、はっきり言う子もいた。みな、2008年の憲法規定のことを心配していたのだと、いまさらながら感じる。

*        *        *

 さて、問題のネット復旧だが、午後2時ごろに私の使うミャンマーネットはつながるようになった。カタール資本のプロバイダーは2月2日になってもつながっていない。こちらの日本人情報誌のネット記事には、1日午後2時からのネットワーク切断の通達がきたと記されていたが、その時間に私のWi-Fiはつながるようになった。

 また、銀行のATMが使えない理由が軍によるものではなく、インターネットでの支店間通信ができないことによる混乱を避けるために、銀行側が営業を一時ストップしたという話だ。午前中からATMが止まっていたという知人の話を考えると、インターネット切断は発表以前に行われていたことになる。情報は錯綜し、前後したものを整理しなければならない。

 正しい情報を得よ、と言いながらも、噂の情報も考慮する必要があった。深夜12時から早朝4時までの外出禁止令が夜8時から朝6時までに変更された「らしい」というFacebookの書き込みも、無視することはできない。発表以前の実行がありうるからだ。

 私のインターネットが切断されているあいだに、LINEやメッセンジャーの未読は50件を超えていた。まず、日本への大丈夫ですよという返信。そして、学校経営者への連絡。

「ヤンゴンはいつもと同じです。あまり怖がらないで大丈夫ですよ」と、私を安心させるための内容の会話。そして、生徒たちの「先生、出かけないでくださいね」というメール。情報とは報道だけでなく、相手を思う声の中にあるのだなと思う。ふつうに出かけて大丈夫、できるだけ出かけないでという声。どちらも大切な情報だ。(2月2日 記)

 

能勢理子
1963年生まれ。雑誌記者などを経て1990年渡米、ニューヨークにてライター活動。日米間を往復しながらアメリカのサブカルチャーなどを紹介する。以来、デザイン・造形分野を中心に執筆を行なう。主著に、NYサブカルチャーをテーマにした『ニューヨーク・グラフィティ』(グラフィック社)、日本のデザイン・建築をテーマにした『Japan Modern』(共著、タトル出版/ミッチェルビーズリー、日・英・独語にて翻訳出版)、『The Modern Japanese Garden』(共著、河出書房新社、日・仏・英・独・伊・西語にて翻訳出版)など。
2014年、ミャンマーの日本語学校へ教師として着任。2017年より校長をつとめる。